暗殺現場となった赤松邸跡(京都市上京区槌屋町)織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬―――。日本史上、暗殺や討死によって最期を遂げた有名な人物は数多く存在する。
では、その実行犯となったのは、どういった人物だったのだろうか!? これは、一般的にはマイナーな『日本史の実行犯』たちの物語!

 

 室町幕府・第六代将軍、足利義教(よしのり)―――。

 籤(くじ)によって将軍となり「籤引き将軍」と呼ばれた義教は、将軍親政のための「万人恐怖」の政治を敷き、「悪御所」や「悪将軍」と恐れられていました。その義教を斬り伏せた人物こそ「安積行秀(あずみ・ゆきひで)」という剣の名手だったのです。

 通称を「監物(けんもつ)」といった行秀は、揖保川(いぼがわ)の上流にある播磨国宍粟(しそう)郡安積(現・兵庫県宍粟市)の出身と言われています。安積氏はその地域に勢力を張った国人であり、行秀は播磨国の守護を務める赤松家に仕えていました。詳しい生年や経歴などは不明ですが、家中きっての剛の者として知られていたといいます。

 行秀の主家の赤松家は「四職(ししき)」の一家として、足利将軍家に仕える名門でした。四職というのは、幕府の軍事権などを司る侍所(さむらいどころ)の長官に命じられた四家であり、赤松家の他には、一色家、京極家、山名家がありました。

 その他、四職以外にも「三管領(さんかんれい)」という将軍を補佐する幕府の重職があり、こちらは斯波(しば)家、細川家、畠山家が就いていました。この「四職」と「三管領」が力を伸ばし、室町幕府の政治方針を決めていました。そのような有力大名中心の政治から、かつての将軍中心の政治へ戻そうとしたのが、六代将軍の足利義教でした。

 義教は苛烈な性格の持ち主でした。

「料理が不味い」と言って料理人を処刑したり、儀式中に微笑んだ公家の所領を没収したり、闘鶏のために自身の行列が一時止まってしまった時は闘鶏を中止させ京都中の鶏を追放したりするなど、怒ると見境がなくなってしまう一面がありました。

 また、義教は守護たちの家督争いに介入し、自分の息がかかった者をそれぞれの家の当主に据えて、将軍中心の政治を推し進めようとしました。その結果、三管領の斯波家と畠山家は義教の意向で後継者が決められ、四職に関しては一色家、京極家、山名家(赤松家以外の三家)が義教によって強引に家督相続が決められてしまいました。特に一色義貫(よしつら)は、出兵中に義教の命によって暗殺されたと言われています。

 自分に歯向かう者がいれば容赦なく追放や討伐、斬首、暗殺を行う義教の政治や性格について、当時に日記には「万人恐怖」と書き残されています。

 永享12年(1440年)に一色義貫の暗殺事件が起きると、京都には次のような噂が流れました。

「次は赤松、討たるべし」

 また当時の日記にも、この時の将軍家と赤松家との緊迫した状況が記されています。

「恐怖千万、世上も物言あり。赤松の身上と云々(しかじか)。播州(播磨国)、作州(美作国:岡山県北部)借り召さるべきの由、仰せらるると云々」

「謳歌していはく、世上物忩(ぶっそう)。赤松入道(満祐)の身上と云々、如何(いかが)」

 つまり「義教の次の狙いは赤松家である」という流言が飛び交ったのです。

 

 この時の行秀に関する史料は残されていませんが、この噂はもちろん知っていたでしょうし、主君の赤松家の所領が没収され、討伐を受けるということは、自身に直結してくる死活問題として捉えていたことは間違いないでしょう。

 当主の満祐は、背丈が低く「三尺(≒90cm)入道」と世人に嘲笑されていた僻みのためか、その気性は激しく常に傲岸不遜でした。しかし、この時ばかりは、さすがに追い込まれていたようです。

 そこで満祐は「狂乱した」ということにして隠居し、老臣の富田性有(しょうゆう)入道の屋敷に療養と称して謹慎しました。これは赤松家の重臣たちによって決定された、義教の怒りを鎮めるための緊急措置だったと言われています。もしかすると、満祐の隠居を決定した赤松家の重臣たちの合議の間に、重臣の一人である行秀もいたかもしれません。こうして一時的に義教の目をごまかせた赤松家ですが、決断の時は迫っていました。

 そして時は、嘉吉元年(1441年)6月24日を迎えます―――。

 この年に起きた「結城合戦」に勝利を収めた上機嫌の義教を戦勝祝いと称して呼び出しました。この時「たくさん生まれた鴨の子が泳ぐ姿が面白いので」と言って招いたとも言われています。この日は21日から降り続く雨に、風が加わり、この時期だというのに(新暦だと7月12日)肌寒い天気だったそうです。

 赤松家の屋敷は「西洞院以西、冷泉以南、二条以北」にあったといいます。現在の京都市中京区槌屋町(つちやちょう)の一体であり、二条城の東の堀川通を挟んだ場所に当たります。

 行秀は赤松邸で将軍の到着を待っていました。この時すでに、将軍を弑逆する計画はきちんと練り上げられていたことでしょう。

 義教が赤松邸に到着したのは申の刻(午後4時頃)だったといいます。義教のお供には御相伴衆(おしょうばんしゅう)と呼ばれる諸大名は管領の細川持之や侍所の山名持豊(後の宗全)など数名であり、さらに公家の正親町三条実雅(おおぎまちさんじょう・さねまさ)などがいました。いつもよりは少ないお供だったそうです。

 義教をもてなす赤松家の主人は、赤松教康(のりやす)でした。父の満祐は表面的には「狂乱」となっており、老臣の富田の屋敷に謹慎していたためです。

 屋敷に入った義教は、御座の間の正面に座し、その隣には実雅が座りました。そして、次の上壇の間には近習衆が座り、下の間に諸大名が列座し、祝宴が始まりました。

 この時、行秀は宴の席にはいません。行秀がいたのは、御座の間の背後の襖(ふすま)の裏。それも宴の場には似つかわしくない甲冑で身を固めていました。

 間もなくすると、酒宴が始まりました。

「いよいよじゃ…」

 大きな盃になみなみと注がれた酒が1回、2回、3回と諸大名の間を廻ります。その間、庭に設えられた能舞台では赤松家がひいきにしている観世の能楽師によって猿楽が演じられています。

 そして、酉の刻(午後6時頃)を迎え、京に夕やみが迫っていました。酒盃は5杯目が廻され、猿楽は3番目の『鵜飼』を演じられています。

 すると突然、屋敷の中で「ドドドドッ」と太鼓を鳴らすような轟音が響き渡りました。

「何事ぞ!」

 宴のじゃまをする物音に腹を立てた義教が周囲の者に尋ねました。

「雷鳴にございましょう」

 隣席の実雅が答えました。3日前から雨が降っており、翌日には雷雨となったような天気だったため、実雅が雷鳴だと思ったのも仕方がないことでした。

 しかし、これは赤松家中の将軍暗殺の合図だったのです。

「よし!門は閉まったか…!?」

 行秀が小声で周囲の者たちに確認をとりました。

 実雅が雷鳴と勘違いしたのは、実は馬が一斉に放たれた音でした。

そして、馬が赤松邸を出ると「それ!門を閉めよ!」と表門の閂(かんぬき)は下ろされ、義教の逃走手段の馬を奪い、逃走経路の表門は閉ざされました。

 閉門を確認した行秀は、目の前の襖を勢いよく引き開けました。周囲の襖も一斉に開かれ、行秀をはじめとした甲冑を身にまとった武士が広間に踊り入りました。

 上壇の間の背後の襖から突入した行秀の眼前には、主君を貶めようとする将軍がいました。行秀の脇の2人の武士が義教の両肩に取りついて畳に押し付け、身動きを封じました。

 そして――――

「悪御所め!覚悟せい!」

 

 行秀は躊躇なく刀を振り下ろしました。こうして義教は、辞世の句どころか、最期の言葉を発する間もなく、行秀によって背後から首を取られたのです。

 宴から一変して赤松邸は修羅場と化しました。諸大名は座敷を這って逃げ、庭から塀を越えて逃走するざまでした。そういった中でも刀を抜いて、行秀などに飛びかかってきた者がいましたが、赤松家の老臣が「既に将軍の首を挙げた上は、赤松家としてこれ以上の争いは望まないので鎮まれたし!」と大声で叫びまわったので、ようやく事態は収まりをみせ、残った者も赤松邸を後にしました。

 この将軍暗殺事件は、その日の内に、すぐ京に知れ渡りました。

「将軍かくの如き犬死、古来その例を聞かざる事なり」

「前代未聞の珍事なり」「言語道断の次第なり」

「希代、不思議の勝事、先代未聞の事なり」

 当時の日記などにも、事件の衝撃さが残されています。

義教の評判が悪かったことから、「自業自得」とも記されています。

 諸大名が屋敷を後にした後、老臣の富田の屋敷から「狂乱」と称して隠居していた満祐が戻り、軍備を整える指図を出しました。義教の仇を取るために、兵を挙げる大名がいる可能性が大いにあったからです。

 ところが、諸大名が出兵する気配は全くありません。これは、今回の事件が赤松家の単独の犯行なのか、それとも同調する大名がいるのか、判断できなかったためだと言われています。

 物見を出して、反撃がないことを確認した満祐は、義教の首と共に領国の播磨への引き揚げ命じました。その際に赤松邸を焼き払った後、隊列を組み、堂々と京都を後にしたといいます。そして、その行列には義教の首が槍先に高々と掲げられました。その首を掲げたのが、義教の首を取った行秀だったと言われています。

 その後、幕府に対する反逆者である赤松家には治罰の綸旨が下り、細川持常や赤松貞村、山名持豊などの幕府軍の追討を受けることになりました。

 播磨に軍勢を集中していたため、美作をすぐに奪われ、合戦においても敗戦を重ねたため、諸方面の兵を退き、本拠地としていた坂本城(兵庫県姫路市)に籠城しました。

 しかし、坂本城は平城であり、幕府の大軍と戦う要害ではないため、城を捨てて城山城(きのやまじょう:兵庫県たつの市)という山城に移りました。行秀もこれに従ったようです。

 嘉吉元年(1441年)9月9日の早暁、城山城を包囲していた幕府方の山名軍の攻撃が始まりました。標高458mの亀山(きのやま)に建つこの城は、急峻な要害にあるため、山名軍の猛攻を何とか退けました。しかし、誰の目で見ても、落城は目の前に迫っていました。そこで満祐は義雅(弟)と則尚(甥)を城から逃しましたが、それを知った城兵たちの士気が落ち、脱走する者も多く出ました。

 そして、翌10日を迎えました。

 山名軍の攻撃は卯の刻(午前6時頃)から畳み掛ける様に行われ、辰の刻(午前9時頃)になると、終に残るは本丸のみとなってしまいました。

 ここに来て満祐は、教康(子)と則繁(弟)に再起を図らせるために脱出せよと厳命しました。はじめは容易に聞き入れなかった2人も、満祐の遺命に最終的に従うことにしました。運良く西南の方角が手薄であったため、何とか落ち延びることが出来ました。

 彼らが城を出たことを確認して、満祐は自害の支度に入りました。

 介錯を任されたのは、足利義教の首を取った赤松家一の剛の者、安積監物行秀でした。

「頼むぞ、行秀よ」

「御意!」

 行秀は割腹した満祐の首を斬り落としました。主君の最期を看取った行秀は、本丸に残った赤松一族69人の自害をしかと見届けた後、城に火を放って、火中に身を投じました。

 巳の刻(午前10時頃)には城山城は落ち、名門赤松家は滅亡したのです。

 主家の滅亡を見届けた行秀の振舞いは、赤松家の最期の花を飾った天晴れな武者振りと讃えられたといいます。

 落城から7日後、満祐と行秀らの首は焼け跡から見つけ出され、京都へと送られました。そして、管領の細川家や義教の遺児たちの前で首実検が行われ、9月21日に四条河原に晒されました。梟首(きょうしゅ)の後、京都の市中を引き廻され、赤松邸の焼け跡に移されました。そこで2人の首は、焼け跡に植えられた栴檀(せんだん)の枝に掛けられることになりました。一の枝(根元から数えて最初の枝)には主君の赤松満祐、二の枝には行秀の首が掛けられたと言われています。その後の行秀の首の行方は、定かではありません。

編集部おすすめ