戦前の昭和11年(1936)に出版された『旅窓に学ぶ 東日本篇』(ダイヤモンド社)という鉄道旅行ガイドブックをずいぶん以前に入手した。このガイドには観光から産業に至る幅広い沿線情報と鉄道路線そのもののデータが満載で、昔の町や村の様子から鉄道各線の車窓に至るまでの貴重な記録となっている。

この中から中央本線の鳥沢~猿橋間の描写を引用してみよう。

 〔前略〕鳥沢停車場を過ぐ。これより西北に折れて御領沢、竹沢、蛇骨沢などの渓流を点綴(てんてい)して四ヶ所の隧道を過ぎ、直ちに桂川の峡流を渡る。此の時右窓上流に有名な奇橋、猿橋を見る。しかし両端を懸崖の隧道に繋ぐ僅か十七間〔約31メートル=引用者注〕の小橋とてその観望は一瞬の間に消え去り、殆んど見るいとまもない。鉄橋の下には東電八ツ沢発電所への導水橋が見える。

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写真を拡大 旧版地形図に描かれた旧線 1:50,000「上野原」昭和4年修正(2倍拡大)+1:25,000「大月」昭和4年測図
奇橋・猿橋がちらりと見えた中央本線の旧線を歩く【前編】
写真を拡大  1:25,000「大月」平成24年更新に書き込み。赤い線が旧線、オレンジ色は歩いたコースを示す。
路線短絡・複線化による旧線をたどる

 現在の中央本線を走る列車の窓から奇橋・猿橋を見ることはできないが、昭和43年(1968)の9月まではこの記述の通り、瞬時ではあるが天下の奇橋を拝めた。線路変更したのは、複線化する際に鳥沢~猿橋間を大幅にショートカットしたためである。

 従来は桂川に沿って北側を迂回していたのだが、線路改良の際に水面から45メートルという高くて長い新桂川橋梁(513メートル)を架け、その西側に1222メートルの猿橋トンネルを穿り、両駅間を4.1キロから3.4キロと2割弱も短縮した(営業キロは4.1キロのまま)。

 鳥沢駅は東京駅起点81.2キロ、東海道本線なら小田原の少し手前の距離に相当するが、東京都から小仏峠を越えて少しの間だけ神奈川県内を走り、並行する相模川の本流が山梨県に入って名を変えた桂川の峡谷に沿って走る区間だ。

いつの間にか新装成った鳥沢駅舎を後にして甲州街道を西ヘ進む。両側はかつての街道筋の空気を今に伝える家並みがまだ残っている。

 

奇橋・猿橋がちらりと見えた中央本線の旧線を歩く【前編】
写真を拡大 甲州街道(甲州道中)上鳥沢宿の面影をとどめる民家。

 国道が小さな川を渡るが、この橋の上空をかつて線路が跨いでいた。ガーダー橋なのでもちろん橋桁はとっくの昔に撤去されたが、立派な石積みの橋台だけは残っている。これが御領沢橋梁で、かつてはずっと下を流れる水面を見下ろして汽車は走っていた。南側には現役の新桂川橋梁が見える。ガーダーの緑色が鮮やかで、流れの真上部分はスパンの長い上路ワーレントラス。「撮りテツ」にとっては有名な場所だが、「新」の付いたこの鉄橋も来年には半世紀を迎える。

  川に沿って北西へ進む国道20号の右手に路盤はあるが、一部は住宅地などに転用されているため、廃線跡を完全にたどることはできない。それにしても重い汽車に長い間踏み固められた地盤は、宅地としては条件が良さそうだ。道端の小さな児童公園に上ってみると、一見して廃線とわかるスペースが草地で続いている。

奇橋・猿橋がちらりと見えた中央本線の旧線を歩く【前編】
写真を拡大 国道20号に沿って一段上を走っていた中央本線の路盤跡。日当たりの良い草原になっている。

 そのまま歩けばほどなく第一富浜隧道(トンネル)で、倒れた竹をくぐって先へ進むと石積みの立派なトンネル坑口が見えてきた。立入禁止のフェンスが設けられているが、隙間が空いていて誰でも入れる。短いながらも曲がったトンネルなので出口はすぐには見えないが、少し先に明かりが入って明るくなっているのでそのまま進んだ。

奇橋・猿橋がちらりと見えた中央本線の旧線を歩く【前編】
写真を拡大 第一富浜隧道の堂々たる石積みの坑口。崩れずに残っているが半世紀を経て草木の侵入が目立つ。信玄の袴と沢に佇立する橋脚と

 侵入者が外へ出ると目の前に盛り土があって、線路跡はそこで途切れている。その先にあったはずの第二富浜隧道はその盛り土の中に埋もれているのだろう。埋められた盛り土のあたりに新しい富浜公民館小向袴着(はかまぎ)分館が建っている。袴着は珍しい地名だが、『北都留郡誌』によれば、かつて武田信玄が円福寺(先ほど渡った御領沢を遡った場所)に参拝した際、当地で袴を着け直して寺に向かった故事にちなむという説があるそうだ。

 道を下って小向の方へ向かう。

国道の手前の細い道をたどるが、国道の向こうを遠望すると、先ほど見た新桂川橋梁の上を「あずさ10号」が通過して行った。この道はひとつ西側の宮谷川を遡っていくが、ほどなく沢のまん中に石積みの橋脚が佇立しているのが見えた。まだ目地も綺麗に詰まって抜け落ちた石もなく、凛として林間に立っている。半世紀前に現役を引退したが、まだまだ列車を支えることができそうだ。その向こう側には3つ目のトンネルとなる宮谷隧道の入口がかろうじて見えたが、葉の繁った夏なら難しいかもしれない。

奇橋・猿橋がちらりと見えた中央本線の旧線を歩く【前編】
写真を拡大 袴着あたりから振り返れば、新桂川橋梁を特急「あずさ」が通り過ぎて行った。

 

奇橋・猿橋がちらりと見えた中央本線の旧線を歩く【前編】
写真を拡大 宮谷隧道手前の宮谷川に架かっていた橋梁の石積み橋脚が谷間に佇立している。

 右手を振り返れば道に面してこの橋梁の東側の橋台があり、さらに奥には第二富浜隧道の西口。先月は膝を傷めたため休載したのだから、ここで斜面を上ってトンネルを見に行くような無茶はしないことにしよう。国道の宮谷橋の方へ降りて行くと、木立の中に埋もれるようにして煉瓦の水路橋が架かっていた。

これは大正3年(1914)に竣工した上野原の八ツ沢発電所へ通じる水路が宮谷川を渡るための「3号水路橋」で、水路橋にはかなりの速さと量で水が流れており、100年以上経った今も現役だ。これを上流へ遡れば東京電力駒橋発電所の直下だが、駒橋といえば日本の長距離高圧送電の先駆けとして知られる存在で、中央本線の列車は今もその鉄管の下をくぐっている。

奇橋・猿橋がちらりと見えた中央本線の旧線を歩く【前編】
写真を拡大 国道20号宮谷橋のすぐ北側に架かる第3号水路橋。水力発電所へ今日も水を送る。

  ついでながらこの一帯の大月市富浜町鳥沢、富浜町宮谷などの「富浜」はかつての北都留郡富浜村の名残である(昭和29年から大月市)。山の中なのに浜はちょっと不思議だが、実は明治8年(1875)に鳥沢・宮谷・袴着の3村が合併した際に頭文字のト・ミ・ハを並べて合成したのだという。真砂の浜ではなくて、袴のハ(カ)マである。明治の合併はそんな合成地名が意外に多い。

(後編につづく)
 

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