戦国最強武将のひとり、上杉謙信の通説を見直し真相にせまる『上杉謙信の夢と野望』。生涯のライバルである武田信玄との5度にわたる川中島合戦の真相を読み解く。
別働隊の謎 
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川中島合戦③

 九月九日夜、海津城では軍議が開かれ、山本勘助が作戦を立案した。『軍鑑』によればこういう作戦である。武田兵二〇〇〇〇のうち、六〇%にあたる一二〇〇〇人を別働隊にし、夜のうちに進軍させ、卯の刻(朝六時頃)に妻女山を攻撃させる。そうすれば勝ち負けに拘らず、上杉軍は川を越えて撤退を開始するはずだから、あらかじめ八幡原に備えておいた信玄の本軍が襲いかかる──。『甲越信戦録』にいう「啄木鳥戦法」である(『軍鑑』にこの作戦名はない)。しかし、この作戦にはリアリティがない。実際行われた物理的展開に、あとから適当な説明をつけただけなのではなかろうか。

 上杉軍は、赤坂山の尾崎へ流れる水路を堰取って水堀を築き、麓には二重に虎落を結ぶなどして、妻女山を要塞化していた(『北越軍談』等)。城攻めには数倍の兵力が必要といわれるが、八〇〇〇から一三〇〇〇の上杉軍が陣取る山塞に、わずか一二〇〇〇の兵力で攻めかかり、八幡原へと追い落とす作戦など現実的ではないし、そもそも兵力分散の危険に見合うほどの作戦ではないだろう。

 もっとも、一気呵成の強襲作戦と見なくていいなら、『軍鑑』にある物理的展開はほぼ正確ではないかと思う。ただ、別働隊は政虎を妻女山の背後から追い落とすのではなく、むしろこれを「攻城戦」の構えで取り囲んで足止めし、信玄本隊は横田城近辺にいる補給部隊を攻撃する作戦だったのではなかろうか。つまり信玄は政虎を挟撃するよりも、補給路を壊滅させ、妻女山を干上がらせれば、勝利すると考えたわけである。

 だが、これを事前に見抜いた政虎は、武田の別働隊が迫る前に下山を開始した。別働隊を恐れて自落したのではない。八幡原に待ち構えているだろう武田本軍を、夜明けとともに強襲せんとしたのである。政虎の軍勢は、闇夜に乗じて密かに進軍した。

車懸りの構えの真相

 九月十日早朝。夜が明けて、霧が晴れる頃、武田軍の予期しない出来事が発生した。八〇〇〇の兵で八幡原に布陣する信玄軍の前に、一三〇〇〇の政虎率いる上杉本軍が近接していたのである。武田方にすれば、戦慄すべき最悪の事態と言っていい。上杉軍は妻女山を下り、千曲川を渡ると、武田軍撃滅のため、八幡原にて決戦準備をしていたのだ。

 この時、上杉軍の兵数は武田軍より六割も上回っていたが、春日山からの増援と合流した数であろう。この時の上杉軍が用いた陣形は「車懸がり」であったと伝わる。

 車懸りといえば、一般には複数の部隊が円陣を組んで、ぐるぐると回りながら敵陣に攻撃を加えるという認識が広まっているものの、あまりにも実用性が感じられないことから、車懸りなる戦法は存在しなかったと見なされている。

ところが、車懸りの初出史料である『軍鑑』の記述は、このようなイメージとほとんど一致しない。

 謙信は、我が味方の備えをまはりて、たてきり、いく度もこの如候て、さい川(犀川)の方へおもむき候。[中略]それは車がかりとて、いくまはりめに旗本と、敵の旗本とうちあはせて、一戦をする時の軍法なり。

『軍鑑』によると、上杉の陣は「まわりて、たてきり」を繰り返しながら犀川へ進んでおり、信玄の出した斥候は「北に向けて撤退中」と見間違えた。そして報告を受けた信玄はこれを「車がかり」と看破し、本陣を強襲するための戦法だと説明している。『軍鑑』の文章だけ見れば上杉軍の陣形を、円形に結びつける要素はどこにもないのだ。

 では、我々が持っている車懸りのイメージはどこから来たのだろうか。『上杉年譜』は「車備え」、『常山紀談』は「一手限りの陣法」、『北越軍談』は「大長蛇だの備をなし、一隊伐りの合戦を待つ。世に云う当家の車懸り・片車・双車」と記す。こうした記録から、後世の軍学者が研究をすすめるうち、まるで蛇がとぐろを巻くような方円の陣と、行軍隊列である長蛇の陣が合わさって循環攻撃する陣が「創作」されてしまったのであろう。
 
 今日の我々は、軍学者の編み出した車懸りと、『軍鑑』に見える車懸りを別物として、再検討せねばなるまい。少なくとも『軍鑑』の車懸りは円形陣ではなく、武田の本陣に向き合う横並びの陣形なのである。

そしてこれは、武田軍を遠巻きにじわじわと犀川のある左先へと進む進軍隊形であった。

 この時、『軍鑑』を見ると、武田軍は鋒矢の陣(矢印型)をとっていたらしく、前線は横に広がっているのに、後部はほとんど縦一列となっている。信玄が「攻撃を繰り返し、最後には旗本同士でかち合うのが車懸りだ」と述べたように、政虎は、まず先手に武田軍の先鋒を犀川寄りに迂回させ、右側面を攻撃、次の新手がこれを迂回、もうひとつ奥の武田右側面を攻撃、また次の新手が……という手順を繰り返し、最終的に旗本同士の決戦を挑む作戦でいたのだろう。これを見た信玄は急遽、鋒矢の陣を鶴翼の陣に改めるよう命じた(『北越軍談』)。左右に展開して旗本側面の兵層を厚くしようとしたのである。

川中島合戦の一騎討ちは、入念な計画によって仕掛けられた?
川中島合戦の一騎討ちは、入念な計画によって仕掛けられた?
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 一騎打ちの真相

 旗本を動かずに総指揮を務める武田信玄が、馬上の法師武者──上杉政虎に急襲されたのは合戦が最高潮の頃であった。『軍鑑』は両雄の一騎討ちを次のように描写する。

 萌黄緞子の胴肩衣を着た武者が、白手拭で頭を包み、月毛の馬に乗って、三尺ほどの刀を抜き持ち、床几の上にいる信玄に真一文字に迫ると、いきなり三太刀も斬りつけてきた。信玄は立つなり軍配団扇で受け止めた。

 ここに見える「三尺ほどの刀」は小豆長光だったとも、肥前国吉だったとも、竹俣兼光だったとも伝えられる。一般の武士は古い太刀身を摺り上げて短くした「打刀」を佩していた。徒歩で使うためである。

しかし政虎は、伝存する愛刀を見るに、長大で反り返った鎌倉期の太刀を加工することなく、そのまま「太刀」として佩はいていた(竹村雅夫『上杉謙信・景勝と家中の武装』)。これらには相当の使用痕が残されており、古武士さながら馬上から振り下ろして実用していたようである。総大将自ら太刀を振り回すなど尋常の行為とは思われないが、近衛前久は政虎自身による太刀打ちを「珍しからざる義」であると述べている。これは政虎本人が常々敵陣に斬り込んでいた可能性を示しているのではなかろうか。

 ならばこの時、信玄本陣に波状攻撃を繰り返す政虎が、旗本とともに信玄に斬りかかったとしても不思議はない。政虎は矢弾飛び交う最前線を、少人数で駈け巡る大将だったと伝承されるが、永禄六年(一五六三)比定の五月十日上杉輝虎と書状には、彼が「我等自身」で「一命を捨てて」、「手廻の侍どもで鎗を合わせて数度戦い、(関東の)国衆の目を驚かせた」ことが証言されている。彼は史実でも、自ら刀槍を手にして戦う武将だったのである。

 なお、宇佐美定祐の手による軍記『河中島五箇度合戦記』は、信玄に太刀打ちしたのは政虎ではなく、近習荒川伊豆守だったとしている。荒川説発祥の理由に、「軍記作者が『総大将たる政虎が敵陣に突撃するのはみっともない』と考えて事実をねじ曲げたのではないか」と見る識者もいるが、そうではない。なぜなら先の軍記では、第四次とは別年である天文二十三年(一五五四)八月十八日の合戦に、両雄が太刀打ちするシーンが描かれているのだ。種を明かせば単純な話だが、この合戦では軍記作者の先祖とされる宇佐美駿河の活躍があったらしく、これを第四次の合戦以上に注目させようと、一騎討ちの時代を移したらしい。軍記作者は、『軍鑑』で盛り上がる見せ場の武者を、比較的知名度が低い荒川伊豆守にすり替えて興ざめを狙い、武田系軍記の価値低下をはかったものと思われる。

 桶狭間の再来とばかりに太刀を手にする政虎。これを見るなり立ち上がり、軍配で身構える信玄──この名場面が史実である可能性も、まだ一定以上残されていよう。

一騎討ち発生の理由

「この機を逃すな」とばかりに政虎が敵本陣への乱入を決意し、戦国史上類の無い一騎討ちがもし本当にあったなら、どうして起こったのか。歴史好きである人々はこれを偶然の産物と見る傾向が強い。多くの方は乱戦中に政虎が、信玄の在所をほとんど偶然見つけたように感じているらしい。その証左となるのが、従来の創作物(小説や映画等)で、いずれもこの説を採用している。

 しかし、別の線から考えてみよう。一騎討ちに至る戦況を政虎自ら準備した可能性を──。誘爆的に諸隊をぶつけ、本隊同士で衝突する作戦は、村上義清に先例があった。銃弾と弓矢の攻撃と前進を連続し、近距離に入ったところで、長柄が一斉に押す。全ての動作が整えば、騎兵を連れて自ら大将の討ち取りに向かう。五段隊形の車懸りだ。

こうした諸兵科の連合戦術は、豊臣期の朝鮮出兵や徳川期の兵法にも投用されており、「五行の備え」等の名で伝わっている。川中島合戦の一騎討ちは、入念な計画によって仕掛けられた可能性を視野に入れるべきであろう。

(『上杉謙信の夢と野望』より構成)

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