日本軍の機動力とヨーロッパ列強なみの近代兵器
【前回はこちら:日清戦争の分岐点「鴨緑江・旅順口の戦い」はどのようにして始まったか】
明治27年(1894)9月25日午前6時10分ごろ、左岸の砲兵隊が援護射撃するなか、日本軍は各堡塁や砲台への攻撃に踏み切った。
清国軍が九連城へと退却し始めると、日本軍は鬨(とき)の声をあげる吶喊(とっかん)で突撃。波状攻撃を受けた清国兵はほうほうの体で逃げだした。虎山に着いた山県有朋大将は翌日に九連城へ総攻撃をしかけるように命じた。が、清国軍はその夜のうちに退却。第1軍は26日、無血入城を果たした。
この勝利を決定づけたのは、日本軍の機動力である。鍛え抜かれた工兵は臨機応変に架橋し、軍馬や砲兵隊を短期間のうちに清国領へ送り込んだ。
日本陸軍は軍政をはじめ編制、装備とも列強並みの近代化をはかっていた。
これに対し清国は満州人が所属した旧来の軍事組織である八旗を正規軍としてきた。だが、あらゆる面で時代遅れと化したことから八旗から選抜した練軍を編制。
日本陸軍は国産小銃(ライフル)としては初の村田銃(村田経芳が開発)を装備。日清戦争では主に単発の13年式と18年式(一部22年式連発銃)が使用された。清国軍は小銃もばらばらで互換性がない。士気も低く劣勢になると武器や弾薬を捨てて逃げる始末だった。
この渡河作戦でも日本軍は近代的な軍隊であることを列国に強く印象づけた。