常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」をシリーズで紹介いたします。
「反蘇我派」の中心勢力は、藤原氏

 大津宮の謎は解けたが、このころの政治の動きは、日本の地理と歴史を知る上で、避けて通れない場面なので、もう少し説明を加えておく。ただし、以下の記事は、筆者の仮説をもとに、話を進めていく。詳細は、他の拙著を参照していただきたい。

 さて、7世紀後半から8世紀にいたる激動の時代は、登場する歴史のキーマンたちを「親蘇我派か反蘇我派か」の基準で峻別していくと、おおよその歴史の流れがつかめてくる。「反蘇我派」の中心勢力は、藤原氏だ。

 近江朝を倒した親蘇我派の大海人皇子は都を飛鳥に戻し即位する。これが天武天皇で、蘇我氏の遺志を継承し、近江朝で頓挫していた改革事業を、ブルドーザーのように押し進める。独裁権力を握り皇族だけで政権を運営し、合議だけでは達成できない律令の整備を急いだのだ。

豪族たちから土地と民を奪い、民に農地を平等に分配する作業だ。律令が完成すれば、かつてのように、有力者(貴族=旧豪族)による合議制が復活する手はずになっていたのだ。

 ところが、事業の半ばで天武天皇が崩御し、混乱が生じた。皇后の鸕野讃良(うののさらら)(のちの持統天皇)が、息子・草壁(くさかべの)皇子(みこ)の即位を願うあまりに、息子の最大のライバルである大津皇子(草壁皇子にとって異母弟)に濡れ衣を着せて殺してしまったのだ。

鸕野讃良は親蘇我派の有力者たちに疎まれ、草壁皇子の即位の芽も摘み取られた。すると鸕野讃良は、あろうことか、中臣鎌足の子で壬申の乱ののち没落していた藤原不比等に近づき、謀略をめぐらせ、皇位をさらって行く……。

 こののち、藤原氏は天皇家の外戚になるために、涙ぐましい努力を重ね(はたから見れば、我欲のために、なりふり構わぬ手段を駆使し、皇族でさえいうことを聞かなければ抹殺してしまうという、じつに恐ろしい存在であった)、持統天皇の孫の文武(もんむ)天皇(草壁皇子の子)と藤原不比等の娘の宮子(みやこ)の間に生まれた首皇子(おびとのみこ)を即位させる。これが、聖(しょう)武(む)天皇だ。

藤原のための天皇・聖武天皇の画像はこちら >>
聖武天皇(作者不詳、鎌倉時代)

 聖武天皇の正妃になるのは藤原不比等の娘の光明子(こうみょうし)(母宮子の異母妹)で、聖武天皇は「藤原のための天皇」になるために育てられた。事実前半生の聖武天皇は、藤原氏の期待に応えた。

 ところが、ある時を境に聖武天皇は「反藤原の天皇」に豹変し、藤原氏と死闘を演じていくのだ。

 ここが日本の歴史の、大きな境目になっていく。

『地形で読み解く古代史』より構成)

明日は瀬戸内海と河内王朝の謎シリーズ⑮「反藤原の天皇に化けた名君・聖武」です。
編集部おすすめ