イラスト/フォトライブラリー『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 吉原に桐屋という妓楼があった。

桐屋の黄蝶という遊女のもとに、石町の庄右衛門という呉服商がかよってきていた。ふたりは本気で惚れ合い、黄蝶の年季が明けたあと、世帯を持とうと言い交わしていた。
 商用ができて、庄右衛門は伊勢に旅することになった。

 旅立ってから十四、五日して、庄右衛門の友人から黄蝶のもとに手紙が届いた。そこには、「庄右衛門は旅の途中で病気になり、死んだ」と書かれていた。

 黄蝶は悲嘆から寝込んでしまったが、楼主がなだめすかし、僧侶を招いて庄右衛門の追善供養をした。それでようやく気持ちの整理がついたのか、黄蝶はふたたび客を取るようになった。
 そのころ、吉原は火事があったあとで、まだ妓楼はきちんと再建されず、桐屋も平屋の長屋で営業していた。

 八月の下旬、小雨が降り続き、暗い夜だった。丑三つ(午前二時ころ)をまわったころ、黄蝶の部屋の表戸がそっとたたかれた。
「誰だえ」
 黄蝶がたずねた。低い、苦しげな声が答える。


「庄右衛門じゃ。あまりのなつかしさに、訪ねてきた」
 それを聞くや黄蝶は怖さも忘れて戸をあけ、男の袖に取り付いて泣き伏した。
「おまえさん、成仏できないのかい」
「行灯の灯を消してくれ。この世のものでない、あさましい姿を見られるのは恥ずかしい。灯がなくなれば、部屋の中にあがり、もう一度おまえと枕を交わし、それでこの世の未練を断ち切ろう」

 部屋と部屋の仕切りは襖である。隣の部屋に寝ていた金太夫という遊女が黄蝶の泣き声で目を覚ました。耳を澄まして男のことばを聞いていると、どうも怪しい。金太夫は襖をあけて飛び出していき、男の左腕をグイとつかんだ。
「痛い、痛い」
 男が悲鳴をあげた。ものすごい腕力だった。金太夫は男を部屋の中に引っ張り込み、行灯の前に引き据えた。
「おまえは八蔵じゃないか。

なんだい、そのかっこうは」

 男は、すぐ近くにある扇屋という妓楼の下男の八蔵だった。ひたいに三角の紙切れをつけ、古浴衣を着て、細い竹の杖を手にしていた。
「真っ平ご免あれ。常々、黄蝶さんに思いをかけておりました。今夜、こういうくふうをして、思いを遂げようと思ったのです」
 八蔵は平謝りに謝る。黄蝶も同情した。
「許してあげようよ」
「じゃあ、しようがないね」
 そう言うや、金太夫は八蔵の頭を三つ、四つ殴りつけたあと、部屋から外に放り出した。

 八蔵は大柄な男だったが、金太夫につかまれた左腕は四、五日のあいだ、しびれたようになっていたという。
 金太夫は容色は十人並みで、日ごろは物腰もおだやかなため、そんな怪力の持主とは、それまで誰も知らなかった。

『異本洞房語園』に拠った。時期は明らかではない。
 火事のあととあるが、吉原はしばしば全焼しているから、火事から時期を特定するのも困難である。

 さて、八蔵の行為は人をだまそうとしたのには違いないが、あまり憎む気にはなれない。むしろ、同情を覚える。
 吉原では、妓楼の奉公人は遊女と性的な関係を持ってはならないという掟があった。まして下男ともなれば、遊女はまさに高嶺の花だった。
 八蔵は知恵をしぼり、日ごろの思いを遂げようとしたのである。そう考えると、なんともいじましいといおうか。

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