連載第71回の「結婚が気軽でのんきだった江戸時代」で、庶民の結婚は気軽で、裏長屋の住人の場合など、婚礼の宴もなかったと書いた。
しかし、武士階級や、町人でも大店の商人、豪農や名主などになると結婚は家と家の儀式であり、そのしきたりは厳密だった。滝沢馬琴の長男の宗伯の結婚を例に、当時の慣例を見ていこう。
依拠するのは『馬琴日記』である。
馬琴は身分としては庶民だったが、当時の大流行作家であり、有名人だった。生活も庶民としては中の上くらいであろう。その婚礼にまつわる慣例や儀式はほぼ中級の武士に近いかもしれない。
文政10年(1827)、61歳の馬琴は、妻のお百、長男の宗伯、住み込みの下女と神田同朋町に住んでいた。宗伯は医者で、松前藩藩邸の出入医でもあった。この年、30歳。
3月11日、馬琴の三女のお鍬が宗伯の縁談を持ち込んだ。お鍬は宇都宮藩の用人に嫁していた。
「相手は、紀州藩家老の侍医土岐村元立の娘お路で、22歳。
「うむ、ともあれ考えてみよう」
馬琴は娘のお鍬にそう返事をした。
12日、さっそく仲人役の川西主馬太夫が馬琴宅にやってきたので、馬琴と宗伯で応対した。川西はお路の書付(履歴書)を持参していた。見合いについて相談し、馬琴は酒などを出して川西をもてなした。
夕方、いったん帰った川西が使いに手紙を届けさせた。手紙には見合いについて、「明後日の14日昼ごろ、神田明神茶屋」が指定してあった。
13日、馬琴が方位を占ったところ、神田明神はよくなかった。そこで、長女おつぎの婿の清右衛門がやって来たので、川西主馬太夫へ手紙を届けさせた。手紙の内容は、「見合いの場所は池之端弁天あたりの茶屋に変更してほしい」というものだった。
14日の九ツ(正午ころ)、川西主馬太夫が馬琴宅に迎えにきた。宗伯と母親のお百、それに川西が同行して見合いの茶屋に出かけた。馬琴は行かなかった。
先方はお路に両親が付き添うとのこと。
酒や料理を味わいながら雑談をして、宗伯とお百は八ツ半(午後3時ころ)に帰宅した。その後、川西が訪ねてきた。
「いかがでしょうか」
「こちらでとくと相談の上、一両日中にご返事します」
馬琴はそう答えた。
15日
馬琴が宗伯の婚姻を占ったところ、「吉」と出た。
16日
昼前、川西主馬太夫が訪ねてきた。
「お返事はいかがですか」
「ともあれ、きょう、私が先方に出かけて面会した上でのことにしてください」
馬琴はそう答えたあと、昼過ぎから土岐村元立宅に出かけた。あいにく元立は外出中だったが、馬琴は妻と娘のお路に面談することができた。
18日
午前中、川西主馬太夫とともに土岐村元立が馬琴宅にやってきた。馬琴のほか、お百、宗伯も同席して相談の結果、「22日結納、27日婚姻」で決まった。
19日
川西主馬太夫が来て、馬琴と結納の品について打ち合わせた。
21日
昼過ぎ、土岐村元立が来て、「お路の里帰りは29日にしたい」という要望を述べた。
22日
川西主馬太夫が礼服でやってきて、「土岐村家に結納をすませてまいりました」と、馬琴に報告した。この日、結納の儀がすんだ。
24日
川西主馬太夫が来て、お路の嫁入り道具などの一覧を記した書付を持参した。馬琴の方からも、お路の里帰りの際の土産物の一覧を記した書付を託した。
25日
料理屋の手代が来たので、婚礼の宴の料理を頼み、代金3両を渡した。
26日
夕方、土岐村方よりお路の嫁入り道具が届いた。宰領が人足10人を指揮して運び込んだ。
27日
朝のうちから、頼んでおいた料理人が馬琴宅にやってきた。その後、続々と馬琴の親戚がやってくる。
昼前、宗伯は川西主馬太夫に付き添われて、土岐村宅に挨拶に行った。
日が暮れかかるころ、新婦のお路が乗物にのり、馬琴宅にやってきた。
その後、座敷で宗伯とお路は三々九度の盃を交わした。広い座敷に移り、あとは盛大な宴席となる。
終わったのは八ツ(午前2時ころ)。新郎新婦は八ツ半(午前3時ころ)、寝室にはいった。初夜の床である。
宗伯は30歳、お路は22歳で、当時ではふたりとも晩婚だったが、ともに童貞と処女だったはずである。(この点について書くと長くなるので省略)
馬琴やお百が寝床についたのは明六ツ(夜明け)に近かった。
武家や、庶民でもある程度以上になると、結婚は当人同士というより、家と家の結婚だった。
しかし、ややこしい手続きがあるとはいえ、考えてみると、宗伯の縁談が持ち込まれたのが3月11日、お路が嫁入りしてきたのはその月の27日である。現代の感覚からすれば、あれよあれよという間のスピード結婚ではなかろうか。
現在であれば、挙式をどこでおこなうか、披露宴の料理はどうするか、二次会はどうするか、新婚旅行はどこにするかなどなどを考え、さらに予約をしなければならない。江戸時代は、そんなことに頭を悩ます必要はいっさいなかった。