京王電鉄の新宿駅には、1日平均76万人(2015年度・京王線・京王新線合計)が乗り降りしている。民鉄としては東急の渋谷駅(東横線・田園都市線)に次ぐ全国第2位の大ターミナルであるが、そのちょうど100年前にあたる大正4年(1915)に前身である京王電気軌道がこの地に乗り入れた時点では、新宿三丁目交差点の路上で、たった1両の小型電車が折り返していた。

乗降客もせいぜい1日1万人内外といった程度と思われる。

 この電車は甲州街道の上を併用軌道(路面の軌道)で西ヘ進み、中央線と山手線を跨いで坂道を降り、現在の西新宿二丁目交差点あたりに至っていた。そこで左へ折れ、今度は玉川上水にぴったり沿った専用軌道をたどり、現在の初台駅の先で再び甲州街道の路上を少しばかり走るが、ほどなく幡ヶ谷駅の手前で専用軌道へ、という道筋であった。幡ヶ谷手前の路上区間は戦前の段階ですでに道の南側の専用軌道へ移っているが、新宿寄りの併用軌道は昭和38年(1963)まで残っている。

最後まで残った路面区間からスタート
京王線の知られざる旧線(新宿~幡ヶ谷)【前編】の画像はこちら >>
写真を拡大 1:10,000「新宿」昭和30年修正+「中野」昭和30年修正に描き込み

 かつて起点であった新宿三丁目付近の京王新宿駅(最初とは少し違って駅舎があった)から甲州街道を跨ぐ部分までは、戦争末期に空襲で変電所が被災したことが原因で休止となり、ターミナルは駅西口の現在京王百貨店のある場所に移動している。このため最後まで残った併用軌道はわずか350メートルほどの区間(現在の西新宿一丁目交差点~二丁目交差点)の中央分離帯であった。

 新宿駅を含めてこの部分が地下化されたのは東京オリンピックを翌年に控えた昭和38年(1963)4月1日のことである。その直後の6月26日に撮影された空中写真(国土地理院所蔵)には、現在の代々木二丁目交番の場所から地上に出ている線路が見える。地下区間は翌39年6月7日には初台駅の少し先まで延伸された。

 まずは新宿~幡ヶ谷間の専用軌道の廃線を訪ねてみよう。甲州街道がJR線を跨いで西へ下ってきた場所をスタート地点とする。厳密に言えばこの大通りの大半は新宿区内であるが、南側の歩道部分だけは渋谷区代々木である。

ここから初台までは、かつて並行していた玉川上水もろとも地下化・暗渠化されているので、両者まとめて公園になっている場所が目立ち、旧版の地形図で確認しながら歩かないと、どちらの跡地だか見分けるのは難しい。

京王線の知られざる旧線(新宿~幡ヶ谷)【前編】
写真を拡大 新宿駅すぐ近くの西新宿一丁目交差点。地下化の前は正面のルミネを突っ切った向こう側に京王の地上新宿駅があった。戦前の線路は右手の新宿駅南口から路面を下って来るルート。

  文化学園大学と文化服装学院の真新しいビルの前にある広々としたスペースが線路と上水の跡地で、線路は南側であった。やがて左カーブで上水ともども甲州街道から離れていく。左手に京王電鉄の天神橋変電所があるのだが、何となく通り過ぎてしまった。この変電所が空襲で被災し、電圧低下により甲州街道の40パーミルの急坂を上れなくなったのが西口発着の直接の原因である。昭和14年(1939)までは近くに天神橋という停留場もあった。

京王線の知られざる旧線(新宿~幡ヶ谷)【前編】
写真を拡大 文化服装学院のビルのすぐ右側を京王線が走り、その右手に玉川上水が流れていた。線路と用水は正面のビルの左手へ向かう。右手は甲州街道。

 緩いSカーブの終わりで右手に諦聴寺(たいちょうじ)の裏門が見えるが、このあたりは当初かなり急なSカーブで上水の南側から北側へ移っていた。大正期の地形図で見る限り半径20メートル程度の路面電車級のもので、高速電鉄として脱皮するために相当早い時期に解消された。昭和4年(1929)修正の図ではすでにだいぶ緩和されたのがわかる。もちろん今となっては痕跡もないので、その急カーブも想像するのみであるが。

京王線の知られざる旧線(新宿~幡ヶ谷)【前編】
写真を拡大諦聴寺の裏手。かつて急なSカーブのあった場所で、手前が明治神宮の西参道。玉川上水(左側)と京王線の跡地は併せて緑道になっている。 変わらないのは西参道の灯籠だけ

 その先は西参道の踏切跡である。現在は首都高速道路がデルタ形に上空を覆っているが、昔は渡った先に西参道停留場があった。大正3年(1914)の開業時はその名も「代々木」であったが、国鉄の駅名と紛らわしいためか同8年に神宮裏と改称されている。2度目の改称で西参道になったのは昭和14年(1939)のことだ。

 西参道とは明治神宮の西側から入る参道で、甲州街道側からの参道であるため、その踏切跡のすぐ南側には今も灯籠が1対「代代幡町」と彫られた台座とともに残っている。

これは戦前の写真に踏切とともに写っているが、それ以外はことごとく変わってしまった。ちなみに代々幡町とは代々木と幡ヶ谷の両村が明治の町村制で合併して合成された地名で、代々幡斎場はその数少ない名残である。

京王線の知られざる旧線(新宿~幡ヶ谷)【前編】
写真を拡大 西参道の入口に大正時代から建つ灯籠は地上時代の電車も見守っていた。右手奥が明治神宮、線路は撮影地点付近。

  その先の線路は上水の北側に移るので、駐車場が線路跡である。それと並行する裏の細道が上水で、その証拠に東京都水道局の「基準点」の金属円盤が歩道のまん中に埋め込まれていた。ほどなく横切る道路には年季の入ったコンクリート欄干が残っていて、これに三字橋とある。「みあざばし」と読み、大字代々木のうち新町(しんまち)・山谷(さんや)・初台の3つの字の境界にあたることから命名されたそうだ。現在では西にある山手通りが代々木四丁目と初台一丁目の境界である。

京王線の知られざる旧線(新宿~幡ヶ谷)【前編】
写真を拡大 初台駅手前の線路跡地は駐車場、玉川上水の跡地は道路になっている。
京王線の知られざる旧線(新宿~幡ヶ谷)【前編】
写真を拡大 現在地下を走る京王線の換気口。線路はここから右手の地下で、時折り電車の音が聴こえてくる。
左の道路は玉川上水の跡地。

 次に1車線道路と交差する地点には「伊東小橋」と彫られた、これは新設されたらしい親柱とガードレール。オリジナルでなくても、昔の橋を記念して形にして残すのはいい試みだ。そこからすぐ西へ行くと現初台駅の南口がある改正橋跡。何の改正かよくわからないが、明治大正期に都市計画を指した「市区改正」と関係があるのだろうか。この親柱も新しく「再建」されている。

京王線の知られざる旧線(新宿~幡ヶ谷)【前編】
写真を拡大改正橋のモニュメント親柱と初台駅南口。最初に開業した停留場名は改正橋であった。線路は橋の向こう側を左右に走っており、橋の先は踏切だったようだ。

  この区間が開通した大正3年(1914)には改正橋停留場であったが、同8年に今の初台に改称した。現在では新宿からここまで2キロ近くも離れているが、戦前の昭和13年(1938)の時点では新宿停車場前から新町、天神橋、神宮裏と3駅(停留所)もあり、今となっては高層ビルの建ち並ぶ西新宿三丁目あたりにもうひとつ駅が欲しいところだ。

これも幡ヶ谷と代々木の合成-幡代

 初台駅の先にも緑道化した廃線跡は続いている。

昭和39年(1964)に地下化されたのは初台駅の少し先までなので、昭和53年(1978)に京王新線が開通した後までしばらくこの先は地上を走っていた。初台から歩いて間もなく幡代(はたしろ)小学校の脇を通るが、「明治15年創立」という看板も掲げられた伝統校である。町村制施行以前なのでまだ代々木村と幡ヶ谷村は合併していないが、両村が共同で設立した学校なので後の「代々幡」とは逆順の「幡代」となった。この学校の前には幡代小学校前という停留場も設置されたが(廃止時不明)、とにかく当時の京王線の停留場間隔は路面電車やバス並みに短かった。

 幡代小学校の少し西側には大正2年(1913)の開業時に代々幡停留場が設置されたが、東京市渋谷区に入った2年後の昭和9年(1934)に幡ヶ谷本町と改称、同12年に幡代と再度改称されている。終戦直前の昭和20年(1945)7月に廃止されたが、今も甲州街道には幡代バス停が現存。改称の履歴も複雑だ。

 長らく並走してきた玉川上水が南ヘ大きく迂回するところで、線路跡はそちらと袂を分かって甲州街道に近いルートをたどり、間もなく幡ヶ谷駅に着く。京王新線の上下線の上を通るためにひと足先に地上に出てきた京王線の上り線がまず現われ、少し先でその下り線と京王新線が3本まとめて地上に出ると高架へ駆け上り、そのまま笹塚駅へ入っていく。昔の小さな駅に比べると、この駅も巨大になったものだ。

京王線の知られざる旧線(新宿~幡ヶ谷)【前編】
写真を拡大 幡ヶ谷駅の手前に掲げられていた住居表示案内図(南が上)。上で弧を描く緑の線は玉川上水、下の緑線は京王線の廃線跡。
編集部おすすめ