イラスト/フォトライブラリー『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 連載第93回「異人が思わずチップをはずんだ、幕末日本の遊郭」で、幕末のわが国の開国に際して、初めのうちこそ異人(外国人)の客を怖がり、嫌悪していた遊女たちも、やがて景気のいい彼らになびくようになっていったことを述べた。


 同様のことは妾においてもいえた。

『藤岡屋日記』に、アメリカ公使館の通訳官ヒュースケンが妾を雇った記録が残されている。
 安政六年(1859)、江戸の麻布の善福寺にアメリカ公使館がひらかれた。在日本アメリカ公使はハリスである。

 安政六年七月、麻布坂下町に住む久次郎の娘のお鶴、十八歳は、開業準備中の横浜の港崎遊廓の玉川楼に、三年の年季で、四十両で身売りすることが決まった。
 ところが、ヒュースケンから妾の斡旋を求められていた男が、お鶴に目を留めた。異人の妾になるよう勧め、因果をふくめた。
「港崎では異人に肌を許さなければならない。しかも、得体の知れぬ多くの異人に体を任せなければならぬ。しかし、妾になれば、相手はひとりじゃ。しかも、ヒュースケンさんは異人といっても、女を大事にする人と聞いている。しかも、横浜くんだりまで行かずにすみ、相変わらず麻布で生活できるぞ」
 これを聞き、お鶴も同意する。

 玉川楼との話し合いも無事に解決し、お鶴はヒュースケンの月極めの妾となった。八月六日から善福寺に行き、ヒュースケンと同棲するようになった。給金は一カ月七両二分だった。

 

 連載第45回「妾は立派な職業だった!?江戸の妾事情」に書いたように、江戸では口入屋を通じて妾を雇った場合、給金は二カ月契約で高い場合は五両、安い場合で二両くらいだった。お鶴の給金は破格の高額といえよう。やはり、背景には当時の日米間の経済格差、通貨の価値の格差があった。
 こういう高給を知れば、「あたしも異人さんの妾になりたい」と希望する女が出てきてもおかしくはない。事実、横浜では異人に囲われるのを希望する女が続出し、そんな女を見て、日本人の男たちは、「ラシャメンめ」と憎悪し、侮蔑したという。
 ラシャメンは異人に体を許す日本の女に対する蔑称である。もちろん、やっかみ半分だったのはいうまでもあるまい。

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