「ソクラテスの死」という出来事がなければ、世界は今と全く別物になっていただろう。
プラトンは、ソクラテスが死に際して残した言葉や態度に触れたことをきっかけにたくさんの哲学書を書き記すようになった。
「西洋哲学は全てプラトンへの注釈に過ぎない」という言葉があるほど、プラトンが書いた書物は哲学の基礎となっている。
もし、ソクラテスが何事もなく寿命を迎えるまで生きていたとしたら、プラトンも哲学の書物を書かなかったかもしれない。プラトンの哲学書がなければ、西洋の哲学そのものが存在しなかったのではないだろうか。
自然科学はもともと自然哲学と呼ばれていた。だから、哲学がなければ、科学もなかったことになる。
西洋の学問体系の基礎を作ったのはプラトンの弟子アリストテレスであるが、アリストテレスがプラトンから学ぶ機会を得ていなければ、西洋の様々な学問も生まれなかったかもしれない。
すると、ギリシアで生まれた合理的思考を受け継いだ近代化も成し遂げられなかっただろう。西洋の近代化がなければ、東洋や他の地域との力関係も大きく変わっていたはずだ。
それほど、ソクラテスの死は世界の歴史に大きな影響を与えた出来事なのである。
紀元前399年、70歳のソクラテスは「神を信じず青年を腐敗させた罪」によって三人のアテネ市民から告発され、裁判が開かれることとなった。しかし、何故、彼はこのような理由で罪を訴えられたのだろうか。
ソクラテスには時折、瞑想にふけり長い時間身動き一つしない状態になる癖があった。街を歩いている途中で何かを思いつくと突然立ち止まり、考えこんでしまうことがよくあったそうだ。
そうなると、しばらく誰も彼を動かすことができなかった。戦場の真っ只中で一昼夜にわたり同じ場所に立ち尽くしていたという逸話もある。
こういった状態にある時のソクラテスは、一種の神がかりの状態にあって、神霊の声を聞いていた。アテネの人々の間ではソクラテスがよくこのような神がかりの状態になることを知られていたので、神を信じずに邪教を崇拝していると考える人も多かったのだろう。
この時代のアテネはギリシアの覇権をかけたスパルタとの戦争で全面的敗北を喫したばかりだった。その敗戦の大きなきっかけを作った煽動政治家アルキビアデスがソクラテスの弟子であり、愛人であったことは、市民の間で公然と知られていた。
また、敗戦後のアテネでは「三十人政権」という強権的な政治が行われたが、その政権のトップに立っていたクリティアスもソクラテスの弟子として知られていたのである。
ソクラテスのほうでは彼らが自分の「弟子」という意識を持っていたわけではなかった。
しかし、ソクラテスがアルキビアデスやクリティアスのような青年たちをたぶらかしたせいで、アテネが戦争に負け、圧政に苦しめられたと考える人も少なくなかった。実際、ソクラテスを告発した市民の一人であるアニュトスは、反三十人政権派の闘士だった。
他にも、喜劇詩人アリストファネスが作った喜劇『雲』でソクラテスは怪しげな説を唱える人物として風刺され、「ソクラテスより賢い者はいない」という神託を受けて以来、神託が本当かどうか確かめるためにアテネの賢人たちと会って対話し、ことごとく論破してきたりもした。
そのため、当時尊敬されていた人を小馬鹿にする怪人物というイメージが人々の間に広まっていて、アテネ市民の中にもソクラテスをよく思わない者が大勢いたのだろう。
死すら恐れなかったソクラテスの裁判は、当日に抽選で決まった500人の市民からなる陪審員の票決によて行われた。票決に先立つ弁明で、ソクラテスは告発が事実無根であり無罪であることを堂々と主張した。その様子はプラトンの『ソクラテスの弁明』に詳しく描かれている。
長い弁明が終了すると、まずソクラテスが有罪かどうかについて投票が行われ、30票差で有罪の判決が下された。
次に量刑について投票が行われることとなったが、告発者が死刑を求めるのに対して、ソクラテスは国家が自分に何かをするのであれば、オリンピックの勝者が国家から贅沢な食事をご馳走されるのと同じように、自分に対してもご馳走をするのがもっとも相応しい待遇であると主張した。
彼からすれば、自分は国家のためにできる限りのことを尽くしてきたのだから、国家から何らかの処遇を受けるとすれば国家の功労者が受けるのと同じ処遇を受けるのが当然だと考えられたのである。
もちろん、こういった突飛な提案をするのはソクラテス流のユーモアでもあるが、裁判に臨席していた弟子のプラトンや親友のクリトンらは流石にこのままでは旗色が悪いと判断したのか必死にソクラテスをなだめて罰金刑を提案することとなった。
結局二度目の投票では告発者や陪審員を挑発するかのような態度が反感を買ったのか、一度目よりも差が開き、360対140で死刑判決が下された。
ソクラテスは、判決は正しくないととらえたが、死ぬ事自体は全く恐れておらず、むしろ死は一種の幸福だとさえ考えていた。というのも、死は全くの虚無に戻ることで何も感じなくなるか、この世からあの世への引っ越しであるかのどちらかだと考えていたからである。
裁判の後、一ヶ月ほど牢獄で勾留されたソクラテスであったが、死んだ後に亡くなった友人や古い時代の偉人たちとあの世で会えるのを楽しみにしていたそうだ。(後編へ続く)