元永元年(1118)に忠盛の長男として生まれた清盛は、大治年間(1126~31)頃に白河上皇の院殿上人となったあたりから朝廷での動向を確認することができ、大治4年(1129)正月6日に従五位下に叙され、正月24日には左兵衛佐に任じられている。
五位という位は、多くの一般的な朝廷官人にとっての、昇進の最終目標ともいうべきものであった。その位を若年にして与えられたということは、清盛がいかに高い出自を持つ人物であるかを示している。
また左兵衛佐とは左兵衛府の第2等官にあたる官職であるが、通常の武士の兵衛府への任官が第3等官にあたる尉であることに比しても異例である。このような清盛の叙位任官に対して当時の人々が大いに驚いたということが、同時代の貴族の日記に記されている。
そしてこれ以後の清盛は、目覚ましい昇進を重ねていくこととなるのだが、そのような武士としての異例な昇進ぶりの「異常さ」の理由を、清盛が白河天皇の落とし胤であったことに求める説が、『平家物語』の叙述をはじめ、古くから存在している。しかし、この問題を考えるには、かなり慎重な態度が求められるように思われる。
まず確認しておくべきことは、平安時代の武士の勲功に対する恩賞の最たるものが「官位」の付与であった点である。恩賞の中心が「土地」であった鎌倉時代以降の武士との相違があったことには十分な留意が必要である。
清盛の祖父・正盛と父・忠盛は、軍事面や経済面で朝廷に大きな貢献を果たすことで、相応の高い官位を得られたのである。
そしてさらに重要な点として、清盛が生まれた時代までには、朝廷社会において家格の秩序がほぼ形成されていたということである。
清盛はまぎれもない武家棟梁桓武平氏流の家の後継者であり、その立場にふさわしい四位の受領までを約束された昇進ルートを清盛が歩みはじめたことには、必ずしも「異常さ」を見出せないのである。
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