日本人は伝統的に教育熱心で、特に江戸時代における教育水準は世界的に見ても高く、庶民の8割が寺子屋や手習い師匠に通い「読み、書き、そろばん」を学んでいたといわれています。そうした庶民教育の素地は中世にでき上がっていたというのがマンガのテーマでしたが、実際はどうだったのでしょうか。
中世日本の教育が進んでいたことは、戦国時代に来日した宣教師の言葉からもうかがえます。フランシスコ=ザビエルは「大部分の人々は、男性も女性も読み書きができ、特に武士や商人は際立っている」と述べ、ルイス=フロイスは島原を訪れた際に「この地の男子・女子はほとんどみな読み書きを知っている」と識字率の高さを指摘しています。読み書きばかりではなく、庶民も男女を問わず和歌や連歌、漢詩の素養を身につけていたことは、狂言や御伽草子などの史料から読み取れるといわれています。
寺院を中心とした庶民の教育は室町時代から?平安・鎌倉時代まで、教育の対象は貴族や武家の子どもたちで、読み書きはもちろん、和歌、漢詩、音楽、物語、儒教など、幅広い教養科目を学びました。一方、庶民の教育機会は限られ、子ども時代を稚児として寺院で過ごした一部の人に限られていました。
室町時代になると、わずかながら一般庶民の教育を担う寺院が現れます。永享7年(1435)に成立した『長谷寺霊験記』には、摂津国住吉の藤五という者が息子を和泉国の巻尾(まきのお)寺へ送り、読み書きを学ばせた話があります。16、17歳くらいになったら呼び戻して家業を継がせるつもりでしたが、期待に反して息子は出家してしまったということです。
また、16世紀後半、興福寺多聞院の英俊という僧侶の日記によると、多聞院やその子院には奈良の商人の子どもたちが読み書きを習うために預けられていて、その中には女子もいました。先のザビエルの書簡にも、僧侶は自分の寺院で子どもたちを教育し、尼僧は少女に、坊主は少年たちに書くことを教えていたと述べられています。
近くに寺院がなくても教育を受けれた理由近くに教育を受けさせてくれる寺院がない地域では、旅の僧に読み書きを習うこともあったようです。狂言の「腹立てず」という演目には、村人たちが旅の僧を村に連れて行き、草庵にとどめて子どもたちの教育を頼む様子が描かれています。
実際、天文24年(1555年)に越前国江良浦に伝わった文書には、宗幸という旅僧が村人たちに「いろは」を教えていたことが記されています。また、親が子に教えることも行われていたようです。狂言「いろは」には、親が子にいろはの手ほどきをする様子が、落語のような軽妙なかけ合いによって表現されています。物語では、子どもの呑みこみが悪くなかなかうまくいきませんが、家庭内で読み書きを教えることが行われていたことをうかがわせます。
読み書きにとどまらない幅広い教養や道徳観は、マンガでも強調されていた『御伽草子』や農村に伝えられてきた能や神楽などの演芸が大きな役割を果たしたと考えられています。『御伽草子』が本として広く流通するのは江戸時代以降ですが、耳で聞く物語としては室町時代から広まっていたといわれます。また、マンガにも登場する九条政基を感嘆させた日根野荘の農民による演能は、庶民が伝承してきた芸能レベルの高さを裏付けています。
中世から続く日本人の勤勉さや好奇心『平家物語』など琵琶法師による語りも、仏教・儒教に関する知識や道徳観を養うのに重要な役割を果たしたと考えられます。
以上、中世における学びの機会を紹介しましたが、制度や設備面では必ずしも十分な教育環境が整っていたとはいえません。その中で、外国人宣教師を驚かせるほどの教養を備えるに至ったのは、何よりも日本人の勤勉さや好奇心の高さによるところが大きいでしょう。勉強といえば受験の道具と捉えがちな現代人も、学ぶところが多々あるのではないでしょうか。
おかしな猫がご案内 ニャンと室町時代に行ってみた』コラムより>