又吉直樹の芥川賞受賞に始まり、押切もえの山本周五郎賞「次点」…。近年、芸能人と文学の距離がどんどん近くなってきている。
新刊『芸能人と文学賞 〈文豪アイドル〉芥川から〈文藝芸人〉又吉へ 』を上梓、注目を集める川口則弘氏がひもとく。加藤ミリヤ、二宮和也、尾崎世界観…続々とあらわれる、芸能人作家

 文学賞というものは、どんな立場の人が何を言ったって構いません。ある意味、ちょっと馬鹿にされているとも言えるでしょうけど、その代表は衆目の一致するところ、やはり芥川賞です。

「私は芥川賞をねらっている」、「おれの10年後は芥川賞作家だ」、「このブログって芥川賞モノ」、「芥川賞とったぐらいで威張るな老害」などなど。べつに受賞作を読んでいなくたって、どんな賞なのか知らなくたって、何を言おうが、すべて自由です。ブランド力だけが異常にデカい、それが芥川賞の(唯一の)長所かもしれません。

 インターネットが普及したおかげで、この面白い性質がますます激化したのは間違いありませんが、たとえば二一世紀に入ってからでも、芸能人にまつわる芥川賞ネタは絶えません。以下記事をいくつか紹介しましょう。

シンガー・ソングライター、加藤ミリヤ(23)が小説家デビューする。(引用者中略)数々のベストセラーを手掛けてきた幻冬舎の見城徹社長(60)が「芥川賞も狙える」と感嘆するほど鮮烈なデビュー作だ。(『スポーツニッポン』11年9月19日)過去にミュージシャンとして辻仁成が芥川賞を受賞したことがあるが、アイドルがとった歴史はない。ニノ(引用者注・ジャニーズアイドル〈嵐〉の二宮和也)の独特なセンスと情熱でアイドル初の文学賞に期待!(『週刊女性』15年8月11日号「ピース又吉が芸人初の芥川賞受賞にアイドル初が続く!? 二宮和也「小説を書きたい!」爆発した15年来の夢」)尾崎世界観(引用者注・ロックバンド〈クリープパイプ〉のフロントマン)の歌詞はしばしば「文学的」と言われてきたが、本作をもって、その形容詞は名詞へと変わるだろう。
すなわち、尾崎世界観が書く言葉は文学である、と。この作品(引用者注:『祐介』)が次回の芥川賞候補にノミネートされても、いや、よしんば受賞したとしても、まったく不思議ではない。(WEBサイト「ミーティア」16年7月6日コラム「クリープハイプ・尾崎世界観による初の小説『祐介』レビュー:音楽の火花」 ―文:山田宗太朗)

 そして17年、「芥川賞とれるんじゃないか」芸能人の急上昇株は、AV女優・紗倉まなということになっています。さらにはピン芸人、斉藤紳士さんの「デーゲーム」が群像新人文学賞の最終候補にまで残った、との話題もありましたし、今後もめまぐるしく、その座につく(つかされる)芸能人は変わっていくでしょう。文学賞の未来は明るいです。

よしもとも文芸を中心に出版事業に参入

 これらを芥川賞系とすれば、読み物小説誌を中核とした直木賞系のほうも、常に熱く動いています。『小説野性時代』に軸足をおいた加藤シゲアキさんの作家活動は堅調ですし、元TBSアナウンサーの小島慶子さんが『オール讀物』と『小説新潮』両誌で連載小説を手がけるほか、押切もえさん、壇蜜さん、中江有里さん、黒木渚さんなどが続々と作品を発表。これも近年に特徴的な現象というよりは、本書の後章で取り上げるような、小説誌が脈々と取り組んできた編集施策の一つと見てよく、こういったなかから、ひきつづき文学賞の候補者が出てくるのは、まったく自然な流れです。

 そんななかで、金の匂いがすれば何にでも手を出すといわれる芸能プロダクションのよしもと(吉本興業、よしもとクリエイティブ・エージェンシー)も、文芸をはじめとした出版を積極的に手がけています。〈麒麟〉の田村裕が放ったベストセラー『ホームレス中学生』(07年、ワニブックス)から日も浅い07年にはワニブックスとの共同出資でヨシモトブックスを立ち上げ、一二年、創業百周年を記念した「笑いと平和の百冊シリーズ」を企画したり、出版社と協力した「幻冬舎よしもと文庫」(09年創刊)、「小学館よしもと新書」(16年創刊)という箱を用意したりと、所属タレントたちの芸能活動との相乗効果を次々と模索中です。

 ……とか、そんなよしもとの事情について、芸能ライターでも事情通でもない一介の文学賞好きが知ったかぶって書いても仕方ありません。ともかく言えることは、芸能人による小説やエッセイ、ポエム、絵本、その他は日本の出版界の一角を占める重要な文化として、いまのいままですこやかに育ってきたことは事実ですし、85年に太田プロダクションから太田出版が派生して、独自の出版カラーを堅持しながら生き残っていることを見れば、よしもとがそういったチャレンジをすることは、ほんとに価値があります。

 また、新潮社には02年からつづく公募賞「女による女のためのR-18文学賞」というのがありますが、吉本興業が一三年から協賛に付き、一五年からはピン芸人の友近さんが特別審査員を務め、毎回「友近賞」を選んでいます。これがどんな効果を上げているのか、いまもって未知数で不明ですけど、成功することを祈るばかりです。

ムック『文藝芸人』のコピー「芸人が“本気で”勝負した」からすけて見えること

 17年3月には、文藝春秋から、よしもと芸人だけで構成したムック『文藝芸人』が刊行されました。同じ回に芥川賞を受賞した二人、又吉さんと羽田圭介さんが登場していること以外、とくに文学賞とは関係がないので、ここで触れるのは場違いかもしれません。ただ、何といっても気になります。

 何が気になると言って、表紙と背に書かれたキャッチコピーです。

「よしもと芸人が本気で勝負したスペシャルな文藝春秋」

 どういうことでしょうか。

 一般に「文学」という言葉に備わるイメージは、いろいろあるでしょうが、けっこう根強いのが「真面目なもの」ってやつです。

 真面目に取り組んでいる(ように見える)か、ふざけている(ように見える)か。……その違いは、文学評価のなかでも、なかなかしぶとく生き残っています。ユーモアがあるものや軽い文体のものは、文学賞では分が悪い。というのは、これまでいろんな人が指摘しているとおりで、古くからやっている直木賞を見ても、「ユーモアがある小説」と見られた獅子文六、徳川夢声、宇井無愁、玉川一郎、飯沢匡などは、みんな落選組です。

 真剣に書かれていると判断されることが、文学かどうかの重要な分かれ目、といった風潮は、いったい何なんでしょう。読んでいるこちら側は、書いている人がふざけていようが真面目だろうが、どちらでもいいですし、そもそも真剣や本気なことが文学であることの必要条件なのか、疑わしいですけど、少なくとも「文学」に対するおカタいイメージは、ずいぶん浸透してしまっています。

 そして、芸能人のなかでもとくにお笑い芸人は、歴史的に「どこかふざけている」と見なされやすい存在でした。これはいつしか「そうは言っても、芸人は真面目」というストーリーが多く送り出されたおかげで、さほどの偏見はなくなったと聞きますが、しかし「文学」に対して向けられた真面目イメージと重なるまでは、まだ到達していません。

「本気で勝負した~」と、つい謳ってしまうコピーには、芸能人による「文学」は、もともと余技にすぎず本気だと思われていない、みたいな土壌の存在が如実に現われている。そこがどうしても気になってしまうのです。

よしもとも芸能×文学に本腰。歌手からAV女優まで芸能界にちら...の画像はこちら >>

〈2017年7月刊行『芸能人と文学賞』より構成〉

川口 則弘氏がひもとく「芸能人と文学賞」集中連載、一覧はコチラから

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