日本の夏を彩る風物詩。「甲子園」その戦前の風景
今年も野球ファンにとって待ちに待った季節がやってきた。
“夏の甲子園”の愛称で親しまれる全国高等学校野球大会は、今回で99回目を迎える、大正時代から続く国内屈指の長寿を誇る一大イベントでもある。
現在では各都道府県の予選を勝ち抜いた1校が、“おらが街の代表”として日本一を決めるシステムになっている(北海道と東京都のみ2校、記念大会を除く)。しかし今ほど高等学校数が多くなかった時代は、各地方ブロックから1校という、“春のセンバツ”と同じような形で出場校が決められていた。
その“地方”には、現在の日本では実現しえない地域も存在していた。それが「朝鮮」「台湾」「満洲」だ。
戦前日本の領土には朝鮮半島や台湾が含まれていた。文化や風習に加えて行政システムの違いはあるにせよ、これらの地域は当時、関東地方や関西地方などといった地域区分と同じく、「朝鮮地方」「台湾地方」と呼ぶべき地域でもあった。
ただし「満洲」だけは異質で、日本領ではなく友好国だったから、それを一地方と同列に扱っているのは無理があったといえる。「満洲は日本の属国か傀儡国家だった」と指摘するうえでの証拠とされても仕方ない面はある。
これら3“地方”は、日本本土からの移入文化として野球が浸透していた。
そして朝鮮と満洲は1921年の第7回大会で“デビュー”している。このときの予選参加校数は全国で207に過ぎない。2年遅れて台湾からも代表校が送られるようになった。
それから戦争により大会が中止されるまでの18大会、1940年の第26回大会まで3“地方”から代表が送られ続けている。このときの予選参加校数は617だった。
余談だが、沖縄県勢初の甲子園出場は1958年の第40回大会まで待たねばならない。記念大会で「1都道府県1校」とされ、まだアメリカが占領していた“オキナワ”からも代表が送られることになり、選手団はパスポートを持って参加している。
話を戻そう。
大連商業は甲子園ベスト4を経験、嘉義農林は準優勝を果たす第7回大会に出場した大連商業(満洲)は何とベスト4に進出した。釜山商業(朝鮮)もベスト8だ。後者が負けた相手は、その年の優勝校だった。一方、第9回大会で初登場した台湾。
当時の3“地方”は本土からの移住者も多く、朝鮮人や台湾人(当時は日本人だが)などといった現地人と日本人の混成チームが多かった。しかし実力的に本土と大きな開きがあったわけではなく、通算成績で台湾と満洲は3割7分以上、朝鮮も2割8分以上という記録を残している。ザックリいえば長崎県や石川県、秋田県などと同等レベルだ。
決して強豪ひしめく地域ではなかったものの、語り継がれる偉業を成し遂げた学校もあった。それが1931年の第17回大会に参加した台湾の嘉義農林で、決勝戦まで進み準優勝を果たしている。
この嘉義農林は、後年プロ野球の巨人軍に入団して以降20年で3球団を渡り歩き、強肩と俊足から「人間機関車」と呼ばれた、1995年に野球殿堂入りをした呉昌征外野手を輩出している。