かつてに比べ、尊敬されなくなったように見える学校の教師たち。なぜ「尊敬されない教師」は発生するにいたったのか(諏訪哲二氏・著『尊敬されない教師』より)。
◆ポイントとなるのは、学校教育を動かす四つのちから

 学校の教育を動かすちからを図式化して、私は「行政のちから」「民間のちから」「教員のちから」「子ども(生徒)のちから」の四つがせめぎ合っていると考えている。
「尊敬されない教師」もそういう力関係のなかから発生してくる。

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「行政のちから」は国や自治体の政治のあり方の影響を受け、財界からの圧力や学界からの要請も含まれている。
「民間のちから」は個人の自立と利益の追求を基とする市民社会(経済社会)のあり方の反映であり、親からの教育要求もここに入る。
「教員のちから」は主として近代の「知」の伝達や生活様式、生活技能の教授を通じて子ども(生徒)の人格の形成を目指すものである。
 そして、「子ども(生徒)のちから」は上記の三つの動きのなかに投げ出され、自己を近代的主体に形成していこうとする営みといったらいいだろうか。

(中略)
 戦前は学校をめぐる「行政のちから」「民間のちから」「教員のちから」「子どものちから」が強大な軍事・経済大国を目指す上で、みんなほぼ同じ方向を向いていた。「行政のちから」「民間のちから」「子どものちから」に支えられて「教員のちから」は絶対的な指導力が認められていた。学校もやりやすかったはずである。教師は尊敬されていた。

◆次第に大きくなった「民間のちから」

 戦後は学校を動かすちからの配置や力関係が変わってくるが、1960(昭和35)年ぐらいの「農業社会的近代」まで、「教員のちから」はまだかなりの影響力を持っていた。私たちシニア世代はその時代の生徒であった。

 戦後も教育を動かすちからの中心には「行政のちから」が位置していたが、反行政的な勢力としての教員組合などの「教員のちから」と現場で勢力争いを続けた。
 やがて、そういう政治的・思想的な争いとは別のちからである、産業社会の成立にともなう市民社会の「民間のちから」が親や生徒や世論を通じて学校に浸透するようになる。戦後の学校を変えたのはこのちからである。つまり、市民社会的なちからである。
「民間のちから」が大きく張り出すことによって、「行政のちから」も「教員のちから」もどんどん勢力を弱め後退することになる。

 産業社会に見合う子ども(生徒)の成績向上、子どもの商品価値を高める学力向上、受験のための教育・学校が、「行政のちから」が企図していた国家を大事に考える国民形成や、「教員のちから」が推し進めようとしてきた市民形成による公共性の復活を図る教育を押しのける形で、国民の要求として強く望まれるようになっていった。

 さらに、それに追い打ちをかけたのが、1970年代後半からの「消費社会的近代」への突入である。経済構造・社会構造が大きく変わり、社会や家庭の意識が自己利益(経済)中心に変わってくる。公共性や精神性より経済性によって動かされる社会である。

◆「公的なもの」は後退し、「私的なもの」が前進した

 子ども(生徒)のありようも私的エゴによる経済主体の傾向を強く示してくる。共同体的なものに支えられない個人が登場し、自己の利益、自己の基準に沿って自己主張するようになる。

 その結果、1980(昭和55)年を越えて教育問題・学校問題(校内暴力、不登校、いじめ、家庭内暴力、高校中退、ひきこもり、学力低下等)が多様に噴出することになり、特に公立学校の「教員のちから」が大きく後退し、教育・学校のちからの減少とともに、教師の権威の失墜、すなわち、「尊敬されない教師」が登場してくることになった。

 そして、国民の教育の指導機関であるはずの「教育行政」(文科省、教育委員会)がサービス機関化して、「民間のちから」に追随するようになる。教育・学校を変えたのは「民間のちから」(経済のちから)であり、つまりは、市民社会的なちからだったのである。

 教師の権威の失墜は教育・学校における「公的なもの」の後退、「私的なもの」の前進、教育の公共性の低下、教育の市場化の結果として生じた。長いこといわれている「教育の荒廃」の原因は「消費社会化」による社会構造、社会意識の変化によるものである。
 それを直接に動かしたのは「民間のちから」の私的利益追求のエゴによるものなのである。つまり、親と生徒である。
 かくして、全国的に私学の隆盛の時代となったわけである。子ども(生徒)の経済的な交換価値を高めるためである。

〈『尊敬されない教師』より構成〉

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