地下鉄鶴舞線に大須観音(おおすかんのん)駅(名古屋市中区)という駅があるが、「大須というところに観音様があるのだな」とすぐわかる。
この大須という地域こそ、江戸時代から庶民の繁華街として栄えてきたところなのだ。東京でいえば浅草である。
大須は名古屋の浅草である。先づ浅草観音の大伽藍(だいがらん)、仁王門からずらりと両側に並んだ仲店に似せた門前通り。六区そっくりな、旧遊郭地帯の花園、若松、吾妻町界隈の色っぽさ。劇場映画館の濃厚な色彩等々、如何にもよく似せている。
猟奇派作家の丸木砂士(まるきさど)は「小浅草」と歎賞したし、浅草芸術の本家、サトウハチローはなもよたもんの浅草と悦んだ名古屋のアサクサである。(沢井鈴一『大須ものがたり』)
この辺一帯も第二次世界大戦の空襲で、ほとんどの建物が焼かれてしまったが、名古屋の街中では、やはり特異な感じのする街である。名古屋の街は戦後の都市計画が見事であったために、道幅も広く建物も整然とつくられていて、極めて整備された街並みである。
繁華街の「栄(さかえ)」や「錦(にしき)」にしても、きれいに整っている。
地下鉄の駅を降りると、すぐ目の前が大須観音の境内である。「大須観音」は通称で、正式には「北野山真福寺宝生院(きたのさんしんぷくじほうしょういん)」という。真言宗智山(ちさん)派の別格本山である。
名古屋の顔の一つ、大須観音日本三大観音の一つともいわれるだけあって、堂々たる本堂である。今の建物は南を向いているが、以前は東を向いて建っていた。理由はすぐ西隣に伏見通りを通したことによるものらしい。
現在の大須観音の南側には歌舞伎座をはじめ多くの劇場等が立ち並んでいた。そして西側にはかつて遊郭があって、多くの人々で賑わった。東に向かう仁王門通り(大須門通り)は多くの仲見世が軒を連ねていた。名古屋名物の「ういろう」もこの大須から誕生している。
さて、この浅草寺に匹敵する「大須観音」にはどんな歴史が隠されているのか。
真福寺はもともと、尾張国長岡庄(ながおかのしょう)大須郷(現岐阜県羽島市大須)にあった寺である。「大須」というのはその当時あった場所の地名である。
元亨4年(1324)、後醍醐(ごだいご)天皇は長岡庄に北野天満宮を造営し、その別当職として能信(のうしん)上人を補し、上人がこの「北野山真福寺宝生院」を開山したのが始まりだという。
この寺が名古屋に移転したのは、家康の命によるものだった。家康が清洲から名古屋に町ごと移転するいわゆる「清洲越し」を敢行したのは慶長15年から18年(1610~13)のことだが、それと同じ時期(慶長17年)に、この大須観音は移転している。
家康が移転させたのには大きく三つの理由があった。一つは、この大須観音を中心に寺町をつくろうと考えたことである。二つ目は清洲にはこのレベルの寺院が存在していなかったことが考えられる。
最後の理由は、この寺にあった貴重な蔵書などを水害から守ろうとしたことである。真福寺には今でも貴重な蔵書が大須文庫として保存されている。国宝3点のほか、1万5000点もの文化財が文庫として保存されている。
長岡庄の大須地区は、木曽川・揖斐川・長良(ながら)川が合流する輪中地帯にあって、いつ洪水に流されるかわからないという地域であった。家康はその地域から真福寺を移転させることによって、これらの文化財を守ろうと考えたのである。この家康の判断は見事であったといえるだろう。
〈周辺ガイド〉白川公園:昭和42年(1967)に開園した、都市公園である。広さ8・93ヘクタールの公園には、大きな広場を中心に昭和37年(1962)に開館した天文館(のちの名古屋市科学館)と昭和63年(1988)に開館した名古屋市美術館がある。都市中心部にある緑豊かな森にはジョギングや犬の散歩などたくさんの人が集まってくる。美術館は名古屋出身の建築家黒川紀章氏の代表作で、そのデザインはこの地方の歴史建築の意匠が取り入れられているという。
〈『名古屋地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より構成〉