長らく所在が不明だった幻の水墨画『倣夏珪山水図』が発見され、話題を集めている室町時代の水墨画家•雪舟。国宝指定作品数ナンバー1という偉大な画業と、お茶目な一面を持つ彼の素顔を、『日本の宝』(KKベストセラーズ/ビジュアル新書)より紹介する。

■都落ちし山口へと向かった雪舟

国宝指定作品数ナンバー1。水墨画家•雪舟は”都落ち”から這い...の画像はこちら >>
 

 雪舟の師匠である周文は、足利幕府の御用絵師。その周文亡き後、雪舟は跡を継げませんでした。それは画風の違いだと思います。洗練された周文に比べて、雪舟は荒っぽい。当時の雪舟には京都で活躍するという未来は開かれなかった。そんな雪舟を拾うのが、周防(山口県)の守護大名・大内氏でした。おそらく山口行きに関しては、雪舟は都落ちの気分だったと思うんです。

 ところが雪舟は大内氏の庇護のもとで花開きます。最大のきっかけが、遣明船で中国に渡ったこと。とはいえ、船に乗れたのは雪舟が偉大な画家だからではない。遣明船の目的は外交と商売です。雪舟の役割は、いわばカメラマン。

現地の街並みや社寺、軍事施設など、明の様子を記録する係です。

 まず寧波に着いた一行は、禅宗の五山にも数えられる天童寺に赴きます。ここで雪舟は「第一座」という住職の資格を頂く。雪舟は、帰国後も一生この資格を掲げて威厳を自ら醸し出そうとします。

 でも実はこの資格、いまでいう「1日警察署長」みたいなもの(笑)。どこか憎めない人柄が浮かび上がってきます。

■明から帰ると一躍スターに

 雪舟にとって中国行きの何よりの収穫は、当時流行していた浙派と出会えたこと。雪舟は現地で『四季山水図』を描きますが、まさに荒々しい浙派のスタイルそのものです。雪舟の元々の画風と相性もよかったのでしょう。

 それで、雪舟は大きな自信を持って帰国します。さらに、本場の絵を見てきた画家として、周囲から持ち上げられたこともあり、以降の雪舟の画はどんどん変わります。遣明船以前は、荒っぽい自身の画風に反して、端正なものをちまちま描こうとしていたのが、スケールが大きくなって大胆になるのです。

国宝に指定されている作品も、帰国後のスケール感のあるものが多いですね。

 例えば『秋冬山水図』。サイズの大きい画ではありませんが、空から壁が降っているような、大胆な構図が素晴らしい。また、『慧可断臂図』は、畳1畳ほどもある大作。弟子になろうと達磨を訪ねた僧侶が、達磨に無視をされ、自分の腕を切り落として差し出す場面には、緊張感が張りつめています。

■中国に渡ったアピールを欠かさない一面も

国宝指定作品数ナンバー1。水墨画家•雪舟は”都落ち”から這い上がった苦労人
 

 雪舟は、狩野派のような派閥は持ちませんでしたが、面倒見がよく、全国から多くの画家が訪ねてきました。絵を教えて免許状がわりに絵を送っています。『破墨山水図』はその例で、如水宗淵に描き贈った作品。中国に渡ったこと、師匠の周文の偉大さを知ったことなどの文章も書き入れています。

 また、自分の肖像画を弟子に贈ることもありましたが、その姿は中国の僧侶の被る烏紗帽をかぶっている。中国に渡ったというアピールを欠かさない雪舟の素顔が見えて微笑ましいです。

■雪舟を受け継ぐことが大画家への道

 雪舟没後、周防国は大内氏から毛利氏に引き継がれますが、その際に雪舟邸「雲谷庵」も継承しています。

毛利氏は元狩野派の絵師である原直治を、雲谷等顔として雪舟流を継がせました。等顔は、長谷川等伯、狩野永徳、海北友松に並び、桃山の4大巨匠となります。江戸時代の藩の御用絵師としては江戸狩野派が隆盛を誇りましたが、雲谷派も黒田家や熊本藩のお抱えになるなど、西国を中心に活躍しました。 

 また、雪舟の知名度をさらに押し上げたものとして、狩野派の存在が大きいですね。特に狩野探幽は、代々続く狩野派の流儀を一変させるにあたり、雪舟の絵に多くを学びました。岩の描き方などにその片鱗が見えます。また、長谷川等伯も晩年に「雪舟五代」と名乗り、雪舟の後継者をアピールしています。京都で絵描きとして生きていくには、自分は雪舟に連なる者であると宣言する必要があった。それほどに、雪舟はビッグネームだったのです。

〈雪舟プロフィール〉
室町時代に活躍した水墨画家・禅僧で、法諱 等楊。応永27(1420)年生まれ、永正3年(1506)年没か。備中国(現在の岡山県)に生まれ、京都の相国寺にて修行の際に、周文に画の手ほどきを受ける。
応仁元(1467)年に明(中国)に渡り、李 在らから水墨画を学ぶ。帰国後は山口県の雲谷庵に住み、日本独自の水墨画風を確立。のちの日本画壇へ与えた影響は大きい。
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