現代では産婦人科の病院に入院し、出産するのが普通だが、江戸時代は自宅に産婆を呼んで出産した。
産婆はいまでいう助産婦だが、江戸時代の産婆は出産の手助けをするだけではなく、生れた赤ん坊を殺すこともその重要な役目だった。
当時、有効な避妊法はなかったから、望まぬ妊娠はおおかった。では、望まぬ妊娠をしたときはどうするか。
間引きするしかなかった。
産婆に頼んで、生れたばかりの嬰児を殺したのである。
農村では口減らしのために、間引きは盛んにおこなわれていた。一種の人口調節である。
農村だけでなく、都会でも産婆による間引きはおこなわれていた。そんな悲惨な間引きの例が『藤岡屋日記』に出ている。
赤坂新町五丁目の髪結友吉の女房お民(18歳)は、同じ町内の屋根職人政五郎(27歳)と密通していた。亭主の友吉は女房が密通しているのを知り、弘化三年(1846)四月、お民を離縁した。
そのときお民は妊娠していた。
月が満ちてお民は出産したが、生まれてきた男の子は異形だった。いろんな噂が飛び交ったが、頭に角が二本はえていて、口には牙が生えていたという。
そのほか、頭に毛は一本もなく、襟元より上に毛がはえていた。
頭のてっぺんがくぼみ、穴のように見えた。
口が異様に大きく、歯が生えていた。
胞衣には一面に鱗があった。
などとささやかれた。もちろん、ほとんどはデマであろうが。元の亭主友吉の怨念が異形の子になったのだという噂もあった。
政五郎とお民夫婦は生まれてきた子を見て、産婆のお万(48歳)に頼んだ。
「どうにかしてください。こんな鬼子はとても育てられません」
お万もこんな異形の赤ん坊は初めてなので、ひとりでは自信がなかった。そこで、知り合いの医者の女房のお升(36歳)に声をかけ、ふたりで間引きすることにした。
お万とお升で相談し、濡らした懐紙で赤ん坊の顔をおおって窒息死させようとした。ところが生命力が強いのか、なかなか死にそうにない。ついに、ふたりで赤ん坊の喉に指をあて、絞め殺したという。
なんとも悲惨な話だが、産婆が間引きをするのであれば「殺人事件」ではなかった。