私は「スーパーティーチャー」や「パーフェクトティーチャー」は居ないが、「カリスマ教師」や「自己過信ティーチャー」は居ると思っている(大学教授はまるで質が違うと思うが)。
たとえば、尾木直樹氏はもう教育現場(高校・中学)を離れて二十数年経つと思われるが、まだ「自己過信ティーチャー」を演じている。
尾木氏が教育評論をやるのはいいが、まるで現場の教師のように、子ども(生徒)とのやりとりを自信を持ってあれこれ語るのは良くない。子どもとのやりとりは評論ではない。
尾木氏は『週刊文春』(二〇一五年三月五日号)「阿川佐和子のこの人に会いたい」に呼ばれてオネエ言葉であれこれ話し、後記に当たる「一筆御礼」で〈そんな柔らかい語り口で不良生徒を叱ったところでナメられるのではないかと心配になりますが、「そんなことないの。最初に子供の心に共感しておけば、そのあとビシッと叱ってもちゃんと聞いてくれるのよぉ」〉と色っぽく語ったと書かれている。
もう尾木氏はとうの昔に中学教師ではなくなっているし、子ども(生徒)とのやりとりを自慢げに語っても、現実にうまくいくかどうかはわからない。もう証明できないのだから、いま「自己過信ティーチャー」を演じるのは明らかに反則である。
〈最初に子供の心に共感しておけば〉も意味不明だ。子どもはそんなに簡単に教師に「共感」させることはないし、だいたい、その子が教師の「共感」を本当のことと受け取っているかどうかはわからない。
私も何度もそういうミスを犯した。尾木氏は、子どもを教師に操作できる対象のように考えているのではないか。あるいは、自分のような完璧な教師に不可能はないとでも思い上がっているのか。
いま教師は「ふつう」であり続けることが困難な時代であり、子ども(生徒)に対する教師としてのありようは、子ども(生徒)たちのそれぞれによってそれぞれに値踏みされている。こちらの真情は必ずしも伝わらない。子ども(生徒)が教師のありようを決めている。
良識的なカリスマ教師は居ないカリスマ教師は居る。並の教師以上に子ども(生徒)たちに影響を与えることのできる熱心教師の一種である。
熱心教師の中で「自分は特別な教師としての力を持っている」と思い込めるのがカリスマ教師としての第一歩だ。まず自己暗示がかかっていないと子ども(生徒)も暗示にかからない。
カリスマ教師は「とてもすぐれた教師」のことではない。
カリスマ教師は子ども(生徒)への指導力、影響力において一種特異な熱心教師のあり方である。ふつうの教師の模範になるような教師のありようではない。ふつうの教師には中々真似できない。
だいたい、カリスマ教師は常識的ないしは良識的ではない。ある種の狂気を内蔵していなければならない。
その狂気は「オレは完璧な教師だ」という幻想でもいい、「人類のために教師をするのだ」という思い込みでもいい、「子どもを立派な人間に育て上げるのだ」という目標でもいい、あるいは、「オレほど生徒のことを思い、尽くしている教師はいない」という錯覚でもいい。
そういう自信というか自負心がカリスマ教師を創り上げる出発点となる。いまは言葉でその心意気を表現したが、実際は言葉で整理できないような、子ども(生徒)を自分の思うように「創り上げよう」という一種の狂気が、子ども(生徒)たちに影響を与え、動かすのではないかと思う。
<『教育改革の9割が間違い』より構成>