独裁者ヒトラーに対し、密かに反旗を翻したドイツ貴族将校団の有志たち。いかにして1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件へと繋がったのか? 「ワルキューレ」作戦の舞台裏を描く、オリジナル連載の第3回です。
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後世に「ドイツの英雄」として称えられることになる宿命を背負った男、クラウス・フィリップ・マリア・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルク大佐。典型的な軍人貴族階級の出身である。シュタウフェンベルクの登場

 未遂に終わったヒトラーの暗殺。だが、この頃になるとかなり広範囲に渡って動きが出ている反ヒトラー派にゲシュタポも監視の目を光らせていた。そして1943年4月5日、国防軍情報部に捜査されてドーナニーが逮捕。カナリスとオスターも事実上失脚した。
 しかし反ヒトラー派のまとめ役は、すでにカナリスから信頼厚い軍務部長フリードリヒ・オルブリヒト大将に移っており、シュラブレンドルフは3月13日の暗殺が成功した場合、速やかにドイツ国内軍を蜂起させてヒトラー側の動きを封じるようオルブリヒトに伝えた。その際、彼はこう応えたという。
「いつ始めても構わない。覚悟はできている」

 こんな肝の据わったオルブリヒトの元に、1943年9月15日、反ヒトラー派の裏工作のおかげで頼もしい参謀長が赴任してきた。その名はクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク。階級は大佐である。

ヴュルテンベルク公ヴィルヘルム2世の侍従長を務めるシュヴァーベン貴族を父親に、双子の兄弟に次ぐ三人目の息子として1907年11月15日に生まれた。大学入学資格取得後、陸軍に入営し将校となる。優秀だったので、軍ではエリート・コースを歩んだ。
 第二次大戦初期の頃まではヒトラーを支持していたが、戦局の悪化とユダヤ人抹殺の事実に直面し、強い反ヒトラーの立場へと転じた。

 「ワルキューレ」の修正と発動の権限を手に

 第10装甲師団の参謀長を務めていたシュタウフェンベルクは1943年4月7日、チュニジア戦において対地攻撃機の機銃掃射で右手首から先と左手の薬指と小指、さらに左目まで失う重傷を負い本国に送還された。しかし傷痍軍人として退役することを拒み、隻腕隻眼ながら復帰したばかりだった。
 着任後、シュタウフェンベルクはオルブリヒトとともに、莫大な人数の在ドイツ外国人労働者が反乱を起こした際の緊急対処計画「ワルキューレ」を極秘裡に修正し、ヒトラー暗殺成功後の国内制圧に利用しようと考えた。そして反ヒトラー派の主導層と、暗殺直後に通達する声明や命令文の起草に着手した。

 1944年5月、シュタウフェンベルクはまたしても反ヒトラー派の力添えで国内軍総司令官フリードリヒ・フロム上級大将の参謀長に就任。国内軍参謀長なら「ワルキューレ」の修正と発動に関する権限を持つからだ。しかし一方で、自身がヒトラー暗殺直後の最重要な時期にベントラー街のOKH司令部を留守にしていなければならないことと、日和見傾向が強いフロムの扱いを心配した。

「クラム」を譲り受けたシュタウフェンベルクは何度かの試行錯誤ののち、1944年7月15日、これを所持してヒトラー大本営「ヴォルフスシャンツェ」に出頭。

このときは親友で参謀本部勤務のリッター・アルブレヒト・メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐が大手回しに「ワルキューレ」を発動したが、ヒトラーの「両腕」たるヒムラーとゲーリングが不在だったため暗殺は中止。後始末にオルブリヒトが、演習として「ワルキューレ」を発動したと説明することで事態を取り繕った。

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