幕末から明治初頭にかけて、志と信念を持つ者が次々と刃に、あるいは銃弾に倒れ、多くの血が流れた。それほど多くの命を踏み越えねば、明治維新は成り立たなかったのか。
維新までの軌跡を、京都・霊山歴史館の木村武仁学芸課長のナビゲートで追っていく。今回取り上げるのは、新選組を一枚岩にした「芹沢鴨暗殺」(雑誌『一個人』2017年12月号より)。◆内部粛清を経て壬生浪から戦闘集団へ
「魅力的で人望も篤かった」芹沢鴨暗殺の舞台裏の画像はこちら >>
近藤勇(国立国会図書館蔵)  

 文久3年(1863)、将軍家茂の上洛を警護する浪士組の一員として、近藤勇や土方歳三、芹沢鴨らが京都に入った。
 この時、浪士組を率いていたのが清河八郎だったが、清河にはある企みがあった。

 まず幕府の名を借りて浪士組を結成しておき、朝廷から攘夷実行の達しを得たのち、浪士組を幕府から切り離して、関東で攘夷を行おうとしていたのだ。達文を得たのち、清河率いる浪士組は、江戸への帰還を命じられる。

 しかし、これに反対を表明したのが、芹沢鴨だった。芹沢の意見に近藤や土方らも賛同し、京に残ることになったのだ。水戸藩の出身だった芹沢は顔が広く、つてを頼って、京都守護職の会津藩につながり、会津藩の支援を受けて、京都の治安組織として、「壬生浪士組(のちの新選組)」を結成した。
 当初、隊員は13名からスタート。局長は、水戸藩出身の芹沢と新見錦、多摩出身で試衛館道場主の近藤の3人体制とした。さらに試衛館出身の山南(やまなみ)敬助と土方歳三が副長を務め、2つの派閥のパワーバランスを取っていたようだが、派閥間のいざこざが絶えなかった。

 当時、新選組は京の洛西、壬生村きっての旧家である、八木家を宿所としていた。
「母屋は、芹沢ら水戸派の隊士が使い、近藤勇たち試衛館派は離れの建物を宿所に使っていました。暗黙のうちに身分の差があったのかもしれませんね」と八木家16代当主の八木勢一郎さんは話す。

 芹沢は和歌を詠むなど、なかなかの教養人であったらしいが、いかんせん、酒癖が悪かったという。
 酒に酔うと暴れたり、酒代を踏み倒すなど問題行動が多く、評判は芳しくなかった。芹沢に金銭を貸すことを断った大和屋という商家を焼き討ちにしたこともあった。

 そんなことから新選組は「壬生浪」と恐れられるようになる。派閥争いに決着をつける目的もあったのだろう、近藤や土方ら試衛館派は芹沢暗殺を謀る。自藩の傘下にある新選組の評判を貶めることを恐れた会津藩が、近藤勇に暗殺を命じたという説もある。

 ◆170cmの大男を暗殺するには…

 しかし、ことは簡単にはいかなかった。まず芹沢は、身長が170㎝以上あったと言われ、当時とすれば大男だった。さらに武芸に優れ、神道無念流の免許皆伝の腕前があり、かなり手強かった。


 そこで土方歳三が一計を案じ、芹沢の好きな酒に酔わせて討つ作戦に出た文久3年(1863)の9月18日、近藤らは壬生からほど近い花街の島原で宴席を設け、芹沢らに酒を存分に飲ませた。酩酊した芹沢、平山五郎、平間重助らは、愛妾と八木邸に戻り、さらに酒盛りを続け、ようやく寝入ったときは、さすがの芹沢も泥酔状態だったと思われる。 

 その日は土砂降りで、刺客の足音もかき消されたであろう。土方、沖田総司、山南敬助、原田左之助の4人の刺客が覆面姿で母屋に近づき、一気に座敷に飛び込んだ。芹沢の隣に寝ていたお梅がまず刺され、「ぎゃー」という叫び声で目覚めた芹沢は、脇差を手に取って、鴨居で頭を打ちながらも縁側沿いに、隣の座敷まで逃げ出したといわれている。
 しかし隣の座敷の入り口には、八木家の子供の文机が置かれており、芹沢はそれに足を取られて、どうっと倒れたところを襲われ、絶命したという。一番遠い部屋に寝ていた平間と遊女の糸里の二人は、奇跡的に刃を逃れて助かった。

 この乱闘で八木家の鴨居には、今なお、刀傷の跡が生々しく残されている。
「新選組が当家を宿にしていたのは、11代目の源之丞の頃で、当家の家族も寝食を共にしていたようです。祖父や父から聞いた言い伝えによると、芹沢鴨という人は、なかなか魅力的で人望も篤かったようですね。もし酒癖が悪くなければ、彼がずっと局長だったかもしれないですし、新選組の歴史も変わっていたかもしれませんね」。 

 しかし芹沢鴨は、文久3年の土砂降りの夜に命を絶たれた。

この事件により、新選組は近藤勇のもと、一枚岩で結束を固め、ここから戦闘集団としての活躍が始まった。

〈雑誌『一個人』2017年12月号より構成〉

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