「菜根譚」を地で行く安室奈美恵

人よく菜根を咬み(かみ)えば、すなわち百事なすべし

 これは、中国古典「菜根譚」の一文で「私たちは、葉っぱと大根だけを食べる生活を覚悟すれば大志を成し遂げることができる」という努力の大切さを説いたものだ。

安室奈美恵は「菜根譚」の人だの画像はこちら >>
1996年撮影。
ロイター/アフロ

 この言葉ほど、安室奈美恵さんの生き様を示したものはない――。同郷の同世代、彼女がスターダムにのし上がった過程をリアルタイムで見届けてきた身として、そう強く思うのだ。

 安室さんは、那覇市の首里の石嶺という地域で生まれ育った。芸能界デビューの足がかりとなった、沖縄アクターズスクールとの出会いは、小学校5年生の時。のちに盟友となるMAXのレイナさんに誘われて見学に行ったのがきっかけだ。そこで当時の社長のマキノ(正幸)氏の目にとまることとなる。 

 当初彼女の母親は沖縄アクターズスクールの入学には反対していた。理由は母子家庭のため高額の授業料や入会金が払えないとのことでだ。しかし彼女の才能を見抜いていたマキノ氏は自ら母親に会いに行き、授業料や入学金を免除にするなどの条件を提示し、特待生として彼女を入学させた経緯がある。

 ちなみに母親は、彼女に空手を習わせていたが、そちらはなんとしても続けてほしかったそうで、空手は止めなかった。彼女はのちに母親の名前を腕にtatooで残しているぐらいなので当時から母親思いの優しい子だったのであろう。

 彼女が住んでいた首里は坂道が多くアップダウンのある地域である。

彼女はそこから那覇市泊にある(現在は宜野湾市)沖縄アクターズスクールまで歩いて一時間半の道のりを週三回歩いて通っていた。文章にすると簡単なことのように思われるかもしれないが、沖縄の夏の日差しはとても強く夏場には歩く人はほとんどいない。このエピソードからも彼女のストイックさが伺える。

 やっかみを振り払い、努力を積み重ねる

 アクターズスクールに入学した当時の彼女はとても引っ込み思案な性格であったが、レッスンなどを真面目にこなしていくうちに徐々に歌とダンスにのめり込む。次第に学校も休みがちになってしまうが、通学していた石嶺中学では教師達も理解がありバックアップしてくれた。

 ただ学校の授業についていけず、保健室に逃げこむことも多々あった。そのことで同級生達から「芸能活動で特別扱いされている」と、やっかみもかなりあったと聞いている。まだ小さかった彼女は大変辛い思いをしていはずだ。そういった逆境をはねのけた、持ち前の負けん気の強さが、現在の成功につながっているのだろう。

 入校してほどなく琉球放送のローカル番組で行われたカラオケ大会で彼女は見事優勝すると、周りは彼女の変化と早熟さに驚いた。

 その後彼女は那覇市内のプリマート(当時のお店は現在イオン系列になっている)というスーパーなどのイベントで歌って踊るようになる。こうしたイベントの仕事はアイドルが通る登竜門である。

地道な下積みを経て、徐々に那覇市内の同世代を中心に名前が知られる存在になっていく。

 アクターズスクールは、当時沖縄で様々なイベントを主催しており、地方局の30分枠でオリジナル番組も持っていた。私もその番組はよく観ていた記憶がある。同世代の可愛い女の子たちが歌って踊る番組で、毎週楽しみにしていたものだ。アクターズスクールは沖縄で抜群の存在感と人気を誇っていた。

18歳までに売れなかったら…

 安室さんが中学2年生の時、アクターズスクール内でSUPER MONKEY'Sが結成され、彼女はそのグループで中心的な存在となった。しかし彼女は決して浮かれることはなかった。こんな証言がある。

「そこ(当時のアクターズスクールの場所)は、芸能人の養成学校だったからレッスンが終わる時間帯になるといつもナンパ待ちの車がたくさん並んでいたね。安室さんに声をかけたって人もいたけど彼女は一切ナンパ等にひっかることはなかったよ。他のアクターズスクールのメンバーはナンパされる人も結構いたけどね」(地元の同世代・41歳)

 沖縄での活躍はやがて東京のテレビスタッフの目にとまりSUPER MONKEY'Sは全国区となっていく。

 中学3年生の時に、事務所をアクターズスクールから東芝EMIへと移りメジャーデビューを果たした。

彼女はセンターボーカルを担当するようになる。しかし結局SUPER MONKEY'S時代はこれといったヒットに恵まれなかった。今では考えられない仕事もしていて、「いちご白書」というドラマに女優として出演したこともある。

「18歳までに売れなかったら沖縄に戻ってくる」そんな約束を母親としていたそうだ。

 その18歳の時に転機が訪れる。SUPER MONKEYSから"安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S"と改名して5枚目のシングル「TRY ME ~私を信じて~」が73万枚を売り上げる大ヒットとなったのだ。

 その後、名プロデューサー・小室哲哉氏と出会ってからの活躍は誰もが知る所だ。地道な努力が実を結んだ。

 しかし彼女の功績はこれだけではない。それに続く沖縄出身のアーティスト達の道しるべになったのだ。

※本文の事実関係は、石嶺中学の複数の同級生の証言によるものです。

編集部おすすめ