「八月十八日の政変」によって、京を追われた長州藩と尊皇攘夷派の志士たちだったが、密かに京に戻りつつあった。新選組はこういった動きに目を光らせており、元治元年(1864)、4月頃、長州人250人が京都に潜入しているという情報を得た。局長の近藤勇が、市中を徹底的に探索させたところ、6月1日に肥後熊本の志士・宮部鼎蔵(ていぞう)の下僕を捕縛することに成功した。
「宮部鼎蔵も、京から追われていた一人でしたが、従者が京にいることで宮部も戻ってきている可能性が高いと判断したのでしょう」と霊山歴史館の木村さん。
探索を続けるうちに、宮部の隠れ家の一つが、四条小橋西入ルの薪炭商・桝屋だと分かった。
6月5日の朝、武田観柳斎ら8人の新選組隊士が、桝屋に踏み込み、主人の喜右衛門を捕縛して屯所に連行した。喜右衛門は口を割らなかったが、足首に縄をつけて梁に逆さ吊りにしたり、足の甲に五寸釘を打ち込むなど、凄惨な拷問を受けて、ついに自白する。
喜右衛門は近江出身の志士で、本名を古高俊太郎といい、桝屋の養子となり、商人になりすまして倒幕派の計画に加わっていた。
彼らの計画は、まさにクーデターだった。尊皇攘夷派が京の町に火をかけて、その混乱に乗じて、京都守護職の松平容保を暗殺し、孝明天皇を長州に連れ去るというおそるべき陰謀だったという。
これを阻止するため、新選組は、密談場所の探索を始める。その頃の新選組は集団脱走があり、隊士は42人。うち、出動できたのは、34人のみだった。そこで近藤は会津藩に応援を頼むが、その会津藩がなかなか到着しない。
近藤は34人の隊士を、まず、2つに分け、一隊を近藤、もう一隊を土方が率いることにした。
近藤隊は沖田総司や永倉新八、藤堂平助ら10名、土方隊は、井上源三郎、原田左之助、斎藤一ら24名だった。土方は、さらに自分の隊を2つに分け、10名を井上が率いることになった。先斗町(ぽんとちょう)など鴨川の西側の探索を近藤隊が、鴨川の東側、縄手通り周辺を土方隊が担当し、四条通から三条通に向か
って北進した。
午後10時頃、近藤隊は三条小橋西入ルの旅宿・池田屋が怪しいと目星をつける。そして、近藤、沖田総司、永倉新八、藤堂平助のたった4人で突入した。残りの奥沢栄助ら6人には、建物の周りを厳重に固めさせた。
近藤はまず、大声で「御用改めである。
勇敢な浪士が斬りかかってきたものの、これを沖田総司が斬り倒し、乱闘が始まった。浪士らは突入してきた新選組が、まさか4人とは思わず、逃げまどい、裏庭や中庭に飛び降りて逃亡しようとした。そのため、飛び降りた浪士が裏庭に殺到し、そこが激戦地になったと言われている。
一方、新選組はたったの4人、激戦の最中に沖田は喀血して戦線を離脱、藤堂は重傷となり、近藤と永倉だけになってしまう。
近藤の名刀、虎徹もボロボロに刃こぼれし、危機的状態だったが、土方隊が池田屋に到着。井上源三郎ら11名が突入し、2時間ほどの激闘の末、新選組は勝利を収めた。この池田屋事件によって新選組の名は全国に轟き、尊皇攘夷派から恐れられる存在となった。
「新選組が池田屋事件で幕府に対する反対勢力の志士たちを襲撃したことは、すなわち、幕府を守る警察のような立場を明言したことになり、彼らのアイデンティティが一気に定まります。完全なる佐幕化を決定づけた事件と言えるでしょう。池田屋事件によって明治維新が1年遅れたともいわれますが、1カ月後に起きた禁門の変を、非常に大掛かりなものにしたことも事実です」と木村さん。
少なくともこの事件により、新選組と倒幕派は、互いに敵対する立場であることが明確になった。そして、この事件は、その後の「禁門の変」へと展開していく。
〈雑誌『一個人』2017年12月号より構成〉