【前回まではこちら『「ストイック」な男が出会った「奇行」を取る師~ストア派創始者・ゼノンのルーツ』】
感謝を忘れなかったゼノンしかし、ゼノンは途中で恥ずかしがり、スープが入った鉢を隠してしまった。その様子を見て怒ったクラテスは、杖で鉢を叩き割った。そして、ゼノンがスープを足にこぼしながら逃げ惑うのを見ながら「なぜ逃げるのかね、フェニキアの小僧。何も恐ろしい目にあっているわけではないのに」と一喝したという。
このような出来事に嫌気がさしたのか、ゼノンはやがてクラテスの下を離れて、プラトンの系譜を継ぐアカデメイア派や他の様々な学派で学ぶようになる。
ある時、他の哲学者の下で学んでいると、突然クラテスが現れてゼノンの服を掴み、無理やり連れ帰ろうとしたことがあった。
それに対してゼノンは「クラテスさん、哲学者を掴まえる利口なやり方は耳を通じて掴むことです。ですから、わたしを説得して、耳を通して連れて行ってください。無理矢理連れていくなら、わたしの身体はあなたの下にあるとしても、心は元の場所に残るでしょう」と言って抵抗した。
こういった経緯があったにも関わらず、ゼノンの思想にはクラテスの影響が見られるし、クラテスとの運命的な出会いへの感謝も忘れなかったようだ。
40歳頃、ゼノンはアテネ中心の広場(アゴラ)にある彩色柱廊で哲学の講義を始める。彩色柱廊はその名の通り、様々な装飾が施され、絵画が飾られていて、大きな柱が並ぶ場だった。ここが「ストア・ポイキレ」と呼ばれていたことに因んで、ゼノンと弟子たちの学派が「ストア派」と呼ばれるようになったのである。
彩色柱廊はずっと昔にはアテネを象徴する場の一つであったが、ゼノンの時代から約100年前、三十人政権が1400人もの市民の処刑を行った場となったことから、いつしか人があまり寄り付かない閑散とした場所となっていたようだ。それがゼノンにとって人が少なく静かに講義を行うためにの絶好の場と感じられたのだろう。
ゼノンは98歳まで生きたとも言われ、その間地道にずっと講義を続けていたそうだ。誠実な人柄で人徳があり、数多の市民を禁欲的な生き方の哲学へと導いたゼノンは、外国の出身であるにも関わらず、城壁の鍵を預けられたり、黄金の冠を授けられたり、銅像を建てたられたりするほど、アテネ市民から高い尊敬を集めていた。
ゼノンの死も逸話となっている。ある朝、彼が出かけようとすると、躓いて転び、足の指を折ってしまった。ゼノンは死期が訪れたことを悟り、大地に伏したまま拳で地面を殴り続け「いま行くところだ、どうしてそう、わたしを呼び立てるのか」と言った後、自ら息を止めて死んだと言われている。
真面目で大人しく恥ずかしがり屋なゼノンが、たまたま立ち寄った本屋の店先での出会いをきっかけとして、奇異な行いや言動を旨とするキュニコス派に弟子入りしたのは、不思議な運命の巡り合わせであった。
ストア派哲学は質実剛健を旨とするローマの知識人へ受け入れられ、セネカやマルクス・アウレリウスといった哲学者の思想へ継承されていく。奇抜で突拍子もない発想をするのも天才の一つの才能だが、真面目さを貫き継続するのもまた、一つの才能なのかもしれない。