江戸幕府は心中を厳禁し、心中した男女を厳罰に処した。
双方が死亡した場合→死骸取り捨て、葬式禁止
片方が生き残った場合、生存者→下手人(打ち首のこと)
双方が生き残った場合→三日晒しのあと非人手下
非人は社会的に差別されていた人々で、非人手下とは身柄を非人に引き渡すこと。
このように厳しい処罰が科せられたが、あくまで表沙汰になったときである。役人に届け出ず、内々で処理した例が『藤岡屋日記』に出ている。
安政四年(1857)六月十三日の夜、板橋宿の女郎屋橋本屋の遊女(飯盛女)お亀(二十三歳)が、浦和の農民藤吉と短刀で心中をはかったが、失敗し、ふたりとも苦しんでいるところを発見された。さあ、どうするか。
橋本屋はもちろんのこと、板橋宿の有力者が集まり、対応を協議した。
「十四日から十六日まで、宿場の天王祭りですぞ」
「浅草から生人形を借りてくるなど、すでに準備に三百両以上も使っています」
「お役人に検使をお願いすると、祭りは取りやめざるを得ません」
板橋宿は江戸ではないので、代官所の支配である。
有力者は話し合いの結果、心中未遂は代官所に届け出ずに、内々で処理することにした。
藤吉は喉を突いていて重体なため、浦和の親元に人を走らせ、金十両をあたえて、身柄を引き取らせた。親元で死ぬのは確実だったので、十両は家まで運ぶ駕籠賃と葬式代、さらに口止め料というわけである。
お亀は療養させていたが、けっきょく喉を突いた傷がもとで十五日の夕方、死亡した。病死として処理したのはいうまでもない。
こうして心中事件を隠蔽し、無事に祭りは挙行された。
江戸時代、密通など性をめぐる罪の処罰は過酷だった。密通の処罰はたいてい死刑である。くわしくは、拙著『江戸の密通』(学研新書)参照。
こうした過酷な処罰は抑止効果があったというより、かえって隠蔽を生むようになった。つまり、処罰があまりに過酷なため、人々はかえって表沙汰にせず、内々で処理してしまうようになったのである。