関ヶ原の戦いで敗北し、斬首された西軍の将・石田三成。その一族はどのような末路を辿ったのか。

三成と同じように亡くなってしまっただろうか。『歴史人』1月号で、歴史研究家の高澤等氏が三成の子孫のその後について解説している。

関ヶ原合戦後も生き残った、石田三成の子孫のドラマチックな人生...の画像はこちら >>
石田三成の血脈は途絶えることはなかった。イラスト/さとうただし

「三成が神君徳川家康と戦ったことで、その血脈は根絶やしにされているかと云えば、意外にも嫡子の重家を始めとしてすべて生き残っている。
 三成には3男3女があったとされるが、長男重家と三男佐吉は僧籍に入り、それぞれ済院宗享、深長坊清幽を称し子孫を残していない。

 男系では次男重成の血脈が津軽の地に生き残っている。重成は大坂城内で秀頼の小姓として仕えていたが、西軍側の敗報が伝わると、同僚の津軽信建《つがるのぶたけ》の手引きにより海路で津軽に逃れた。
 重成は杉山源吾と名を改め、その子八兵衛吉成は弘前藩主|信枚《のぶひら》の娘子々を妻にして重臣として仕えた。

 吉成は寛文9年(1669)に起こった蝦夷蜂起(シャクシャインの戦い)に際して、幕府からの加勢命令を受けて先鋒として蝦夷地に渡った。吉成は戦闘に参加することはなかったが、鎮圧後に江戸に派遣されて幕閣に謁して事の次第を幕府に報告している。
 吉成は8男1女をもうけ、子孫は代々津軽家に仕え明治に至っている。また重成の次男石田掃部も津軽家臣として五百石で仕えた」

 

 意外にも、三成の男子たちは処罰されることもなく、子孫は明治に至っており、さらに数奇な運命をたどっている。

「長女は石田家重臣の山田勝重に嫁ぎ、その子女は津軽藩に招かれて、津軽氏の一門並みの待遇を得て子孫を残した。
 三女の辰子《たつこ》は弘前藩二代藩主津軽信枚の室となり三代藩主信義を生んだ。この血脈は多くの大名家に渡り、保科家を経由して寧子氏が三菱財閥三代岩崎久弥の妻となり3男3女を儲けている。

 そしてもっともダイナミックな血脈を残したのが次女小石殿である。小石殿は蒲生家家臣岡重政に嫁いだ。岡重政は若狭国守護武田信豊の曾孫で、蒲生家内での権力争いでも勝ち抜いた武将である。小石殿は重政との間に嫡子吉右衛門を生んだ。

 しかし重政は徳川家から輿入れした振姫と対立し、家康から駿府に呼び出され死罪となってしまう。息子の吉右衛門は同じ蒲生家臣の町野幸和の庇護を受け、その娘を娶り於振(自証院)を生んでいる。
 この於振は春日局の養女となり、三代将軍徳川家光の側室として長女千代姫(霊山院)を生むのである。関ヶ原の戦いで敵味方に分かれた石田と徳川の血が37年の時を越えて一つの命を得るのである。

 千代姫は尾張二代藩主徳川光友の正室となり、三代藩主|綱誠《つなのぶ》、高須藩主松平義行を生んだ。

そして四代藩主吉通の娘三千君が内大臣九条幸教《くじょうゆきのり》に嫁ぎ九条稙基《くじょうたねもと》、二条宗基《にじょうむねもと》を生み、代々伝えて大正天皇妃となる節子《さだこ》(貞明皇后)へ至るのである」

 西軍の敗将・三成の子孫が徳川将軍の側室となり、時を経て天皇家に嫁ぐ子孫も出るとは誰が想像できただろうか。

『歴史人』2018年1月号「智将たちの血脈を解明する」より〉

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