イラスト/フォトライブラリー『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

『井関隆子日記』の著者の隆子は天明五年(1758)、旗本庄田家の四女として、四谷の屋敷に生まれた。


 日記に、幼いころの思い出を記している。

 四谷に長安寺という寺があったが、お堂が老朽化していた。長安寺の住職はこの堂を建て替えようと、毎日、托鉢にまわった。
 短い麻衣を着て、草鞋ばきで、菅笠をかぶり、片手に鉢をささげ、もういっぽうの手で錫杖を突き鳴らして歩く。あとには小法師が二、三人、従っていた。

 この托鉢は雨や風の日でも続けられた。これを見て、人々は言った。
「長安寺はこのあたりでは由緒ある寺で、弟子もたくさんいるのに、ご住職自信が修行して歩いている。まだ若いのに、じつに偉いものだ」
 そして、銭や物を寄進する人は多かった。

 ある日から、錫杖の音がぷつりと絶えた。隆子の親戚の老婆など、
「きっと慣れない修行を続けたので、体をこわしたのではなかろうか。さもなければ、托鉢をやめるはずがない」
 と、心配しきりだった。

 

 長安寺の境内に家を借りて住んでいる紺屋の女房は、もとは庄田家に奉公していた。そのため、折にふれて庄田家にも立ち寄っていた。その女房が実情を話した。
 長安寺の住職は実際は好色で、寺の近所に女を住まわせ、こっそりかよっていた。ふたりのあいだには長太という男の子までいる。
 ところが、最近、あたらしい女ができ、そこに入りびたりになって、もとの女のところには行かなくなった。
 生活費ももらえなくなって困ったもとの女が、あたらしい女のもとに乗り込んで大喧嘩になった。これがきっかけで、住職の秘密の情事が近所の人々にあきらかになってしまった。
 ついに寺社奉行配下の役人が長安寺に踏み込み、女犯の罪で住職を召し取った。これまで托鉢で得た金品もすべて女のために使っていたことが判明した。

 住職がどうなったかは書かれていないが、女犯僧でしかも寺の住職の場合、遠島(島流し)になるのが普通である。
 堕落した寺院、堕落した僧侶は多かった。


 しかし、考えてみたら、僧侶は「女と交わってはならない」という禁令そのものが不自然であろう。戒律を一生守り通すことができたのは、ほんの一握りの僧侶だけだったかもしれない。

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