風俗史家・下川耿史さんの監修でお届けするコラム「仰天! 入浴の日本史」、今回取り上げるのは1853~1964年頃。幕末にやって来た欧米人は、日本人が混浴する姿を見て驚愕した。
国辱と感じた政府は、銭湯での混浴禁止に本腰を入れて取り組んだのだった。◆明治政府は国の面目をかけ混浴禁止に躍起となった

 嘉永6年(1853)6月3日、ペリー提督に率いられた4隻の軍艦が浦賀沖に侵入し、日本に開国を要求した。その圧力に屈した幕府は、翌年に日米和親条約を締結する。以来、日本は幕末の騒乱期を迎えるが、同時にさまざまな風俗にも変化がもたらされた。
 帰国したペリーは、アメリカ政府に提出した報告書の中で、日本の混浴を激しく非難しているのだ。その後、混浴を通じて日本人が下品で猥褻であるかのように紹介されている旅行記が、欧米で数多く出回った。

 徳川幕府としても、寛政や天保の改革の際をはじめ、何回も混浴禁止令を発令してはいた。しかし銭湯側としては、男湯と女湯を分けると水や燃料が倍かかり、経済的に難しいなどの理由から定着せず、いたちごっこを繰り返し、幕末期を迎えていたのだ。ペリーの報告書は、文久2年(1862)に日本で翻訳刊行されている。幕閣の要人らも目にしたと思われるが、この時期、すでに幕府には混浴を厳しく取り締まるだけの余力は残されていなかった。

 混浴を禁止し、西欧諸国と肩を並べる文明国となるための課題は、明治政府へ引き継がれた。新政府は慶応4年(1868)8月、東京築地に外国人居留地を開設するため、築地近辺の銭湯に混浴禁止を厳命。

慰安施設として使われていた2階には、目隠しを付けるように厳しく通達。同月、大阪府も混浴禁止を決定している。

 ◆「混浴銭湯離れ」が起こった意外なきっかけ

 明治2年(1869)2月には東京府が「風俗矯正町触」を出した。それには卑猥な春画や見世物、男女混浴を取り締まる旨が記されていた。東京府はその翌年にも混浴の禁止を通達。そして明治5年(1872)11月8日、東京府は軽微な犯罪を取り締まる「違式詿違(いしきかいい)条例(いわゆる軽犯罪法)」を通達。男女混浴、裸体や肌脱ぎで市中を通行すること、立ち小便などが禁止され、違反者には罰金が科せられた。
 だがこの法律が施行された後も、混浴の形態を続ける銭湯は後を絶たなかった。混浴は政府にとっては国辱に値する問題でも、一般国民にとっては日常であった。ところが、大衆の側にも意識の変化が生じ始める。

日本の混浴文化はなぜ廃れてしまったのかの画像はこちら >>
 

 明治半ばから大正にかけて、西洋絵画を崇拝する画学生たちが、「日本女性の裸体は醜い」という蔑視論を展開。モデル探しに混浴銭湯に行っては蔑視する言葉を述べていたので、若い女性が銭湯を敬遠するようになった。

こうしたことも一因となり、次第に混浴銭湯は姿を消していく。風俗史家の下川耿史さんは次のように話す。
「私が子どもだった戦後の頃には、まだ隣村の共同浴場が混浴でした。しかし、オリンピックを控えた東京都が条例で10歳以上の男女混浴を禁止したこともあり、昭和30年代から混浴の風景は激減します。異性に裸を見せる恥ずかしさに、法律を破る恥も上乗せされたのでしょう」。

雑誌『一個人』2月号より構成〉

編集部おすすめ