皇位継承の証として歴代天皇が受け継いできた宝物「三種の神器」。その神宝をめぐって、平安末期と鎌倉末期に繰り広げられた2大紛争の実態に迫る。
天皇の証・三種の神器は平氏の手中…後鳥羽天皇即位に使われた「...の画像はこちら >>
八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の宝物を「三種の神器」という。政権争いに敗れた平家は神器と天皇をともない西走

 中世における三種の神器をめぐる大事件の一つが、壇ノ浦における宝剣喪失である。この重大事件は、平氏の栄光と没落と軌を一にして展開した。

 武家の時代を切り開いた平清盛は、娘の徳子を高倉天皇に入内(じゅだい)させ、皇室との関係を結んだ。徳子は、治承2年(1178)に高倉天皇の第1皇子を産んだ(のちの安徳天皇)。治承4年(1180)、清盛は高倉天皇に譲位を迫り、安徳天皇を皇位継承者としたが、その翌年に熱病で生涯を閉じた。
 清盛を失った平氏一門は、その後、政権の座からすべり落ちることになる。

 寿永2年(1183)5月、平維盛(これもり)は加賀・越中で木曽義仲軍と対決したが、見るも無残な敗北を喫し、逃走することになった。平氏との戦いで勢いを得た義仲は、見事上洛に成功した。しかし、戦いに敗れた平氏は、都を打ち捨てて西走したのである。

 神器がない状態ではかられた新天皇即位

 寿永2年(1183)7月、棟梁の宗盛は都落ちを決意すると、子息の清宗を法住寺殿に遣わし、安徳天皇に行幸を促した。安徳天皇は慌ただしく準備を整えると、剣璽(けんじ)とともに出発している。


 剣璽とは、三種の神器のうちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことである。もう一つの神器の鏡については、平氏一門の一人・平時忠が持ち出すことに成功した。

 宗盛が都落ちに際して、安徳天皇を連れ去った理由は、平氏政権としての正統性確保にあった。また、三種の神器を持ち出したことも、神器が天皇である証だったからである。
 このとき九条兼実(くじょうかねざね)から、新しい天皇の践祚(せんそ)(即位前に行う三種の神器の継承)が提案された。しかし、一方では安徳天皇が京都に戻ってくるのを待つ、という選択肢もあり、二つの意見が対立することとなった。

 平家からの政権奪回を図る後白河法皇は、別の角度から践祚の可能性を模索していた。それは勘文(かんもん)を一つの根拠として、新天皇の践祚を行おうとするものだった。勘文とは、朝廷や幕府の諮問に答えて、役人や学者から上申された文書のことである。
 しかし、三種の神器は存在しないため、践祚を行うには、それを繕うためのロジックが必要だった。そのロジックこそ、「如在之儀」と「太上法皇詔書」であった。

「如在之儀」の如在とは、「論語」にある言葉であり、「神・主君が眼前にいるかのように、つつしみかしこむこと」を意味する。

つまり、儀式の場において三種の神器は存在しないが、あたかもあるかのごとく振る舞うことにしたのである。
 このように慎重な手順を踏まえたうえで、寿永2年(1183)8月20日、新天皇である後鳥羽の践祚がかなったのである。この践祚儀は、肝心の「剣爾渡御(けんじとぎょ)」を欠くという、不完全なものであった。兼実はこれを評して、「希代の珍事である」と述べている。

 ところが、践祚儀だけでは、不十分であることは否めない。即位式を行わなければならないからである。当初、年内に即位式を行う予定であったが、度重なる内乱により、すぐに行える状況にはなかった。したがって、後鳥羽は完全な天皇とみなされていなかったようである。
 ここでも議論の的になったのは、儀式に必要な三種の神器が存在しないことであった。即位を行うには、相応の根拠が必要であるため、代案として卜占に拠るべきか、また勅許に拠るべきか、などの案が提示された。こうして、同年7月28日に即位式は執り行われたが、剣爾がないという異例なものにならざるを得なかったのである。

編集部おすすめ