湯女(※入浴客の世話をする女性)が遊女化していき繁盛したことが、かえって湯女風呂の寿命を縮める結果となった。
夜間営業の禁止で打撃を受けていた吉原遊郭は、抱えの遊女を湯女風呂に派遣し、マージンを稼ぐという荒技に打って出た。そのことが幕府に発覚し、業者11人が磔(はりつけ)に処されるという事件も起きている。さらに吉原にとって痛手となったのが、明暦2年(1656)10月、日本橋から浅草の奥の日本堤への移転を命じられたことだ。
「吉原側は移転を受け入れる代わりに、湯女風呂の禁止を求めました。幕府はその条件を受け入れ、新しい吉原が完成したのと同時に、湯女風呂をすべて取り潰したのです。そこで働いていた湯女は、すべて吉原遊郭へ送られ、遊女となりました」と、風俗史家の下川耿史さんは語る。
江戸時代初期の銭湯は、町に女性の数が極端に少なかったことや、遊女のような湯女のいる場だったため、女性客は皆無と言ってもよかった。湯女風呂が禁じられてすべての湯女が吉原へ送られると、銭湯に女性客がやってくるようになった。銭湯側はいきなり風呂を拡張することもできないので、多くの銭湯は「入り込み湯」と呼ばれる混浴だった。女性たちも多くは混浴が普通だった田舎から出て来ていたため、抵抗は少なかったようだ。
では当時の人たちが、どの位の頻度で入浴していたのかというと、江戸の裕福な隠居ともなれば、朝夕2回も銭湯に通ったようだ。というのも入浴料は幕府が定めた公定料金で、かなりの格安に抑えられていたからだ。江戸住まいの人でほぼ毎日、江戸以外の東日本では3~5日に1~2回、西日本はひと月に1~2回程度の入浴頻度だったようだ。
ただしこの入浴というのは、あくまで湯舟に浸かることを指している。大きなたらいに水をためて洗髪をしたり体を洗うことは、入浴には数えなかった。今風に言えば、シャワーだけの日は入浴とは言わないということだ。湯を沸かす薪が高価だったため、銭湯の少ない地域では、どうしても入浴の回数は減ってしまう。
一方、将軍や大名はこの時代、入浴することは日常の行為となっていた。俗に湯殿姫と呼ばれた入浴の世話係の侍女がおり、殿様の手が付き、妊娠して子を生んだりすると湯殿腹と呼ばれる。8代将軍となった徳川吉宗も、紀州藩主の徳川光貞が湯殿で世話係として仕えていたお由利の方に産ませた湯殿腹の子であった。
〈雑誌『一個人』2月号より構成〉