織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬―――。日本史上、暗殺や討死によって最期を遂げた有名な人物は数多く存在する。
では、その実行犯となったのは、どういった人物だったのだろうか!? 3月19日(月)より配本開始の『あの方を斬ったの…それがしです ~日本史の実行犯~』より「武田四天王・山県昌景を狙撃した男」の生涯に迫る。
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▲激戦地となったとされる「長篠古戦場」。織田・徳川軍が武田軍を迎え撃つために築いたという馬防柵が復元されている。武田家屈指の名将が、
長篠の戦いで銃弾に倒れる

 武田信玄の股肱(ここう)の臣(しん)として勇名を馳(は)せ、「武田四天王」や「武田二十四将」に名を連ねた山県昌景(やまがた・まさかげ)。
 赤で軍装を統一した「赤備え」の部隊を率いて「三方ヶ原の戦い」など多くの合戦で武功を挙げた武田家屈指の名将でした。
 しかし、山県昌景は「長篠の戦い」での激闘の最中、一発の銃弾により討ち死にを遂げてしまいます。その銃弾を放った人物とされるのが「大坂新助(おおさか・しんすけ)」という徳川家の家臣だったのです。
 新助の詳しい出自(しゅつじ)や経歴はほとんど分かっていませんが、徳川家に仕える前は上方に住んでいたといいます。この時、どの大名家に仕えていたかは不明ですが、鉄砲の名人であると共に、剛気な人物として知られていました。
 しかし、ある夜のこと。新助は寝入っている間に盗人に寝所に忍び込まれ、枕元に置いた刀と脇差(わきざし)を盗られてしまいます。この一件があって以来、新助は世間から「男の不面目(ふめんぼく)である」と陰口をたたかれ、勇ましさで知られた新助の評価は、一転して急降下してしまいました。


 この悪評を受けて、新助は決意を新たにします。

新助「知っていて刀を盗られたなら、だらしない男と言われもしよう。寝入っているうちに盗られたのに、どうして恥ずかしいことがあろう。だらしない男という噂ならば、そんなことを言われない方へ行って奉公(ほうこう)しよう」

 上方を離れた新助が向かった先は三河(愛知県)でした。
 これがいつ頃のことかは分かりませんが、おそらく既に徳川家康が国主として君臨(くんりん)していた時期だと思われます(「徳川」と改姓するのは1566年なので、まだ「松平」の時期の可能性もあり)。
 徳川家に仕えることが出来た理由も不明ですが、徳川家には京都の足利将軍家に仕えていた由緒ある服部家(伊賀が出自の服部半蔵の家系)が家臣にいたり、三河には摂津(大阪府)の石山本願寺が本拠地である一向(いっこう)宗の勢力が強かったり、徳川家康が「松平」から「徳川」に改姓するために京都の朝廷と度々交渉に当たったりするなど、上方との繋つながりが少なからずあったので、そういったパイプを用いたのかもしれません。
 徳川家からしてみても、上方の情勢を知り、当時の最先端の武器であった火縄銃の扱いに長(た)けていた新助を家臣とすることは大きなメリットがあったことでしょう。
 こうして新助は、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」での今川義元の討ち死にを機に独立を果たし、三河を平定(へいてい)した新興勢力の徳川家の家臣となったのでした。

 武田信玄に惨敗した徳川家康

 徳川家康は三河を平定して後に遠江(静岡県)に領地を広げ、元亀元年(1570年)の「姉川(あねがわ)の戦い」では浅井・朝倉家の連合軍に勝利を収めた一方で、元亀3年(1572年)に起きた「三方ヶ原の戦い」では甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を領する武田信玄に惨敗を喫しました。
 この戦に前後して、武田家は、二俣(ふたまた)城や野田城など徳川家の諸城を瞬(またた)く間に落としていっています。その中で柿本城や井伊谷(いいのや)城、伊平(いだいら)城などを落城させる目覚ましい活躍をしていたのが山県昌景でした。
 これらの合戦での新助の動向は分かりませんが、徳川軍の一員として従軍していたかもしれません。


 さて、「三方ヶ原の戦い」の直後に武田信玄が病死(狙撃が原因とも)したものの、その跡を継いだ武田勝頼は父の信玄と同様に徳川家の領地に攻め込んできました。
 その標的となったのが高天神(たかてんじん)城(静岡県掛川市)でした。この城は遠江における徳川家の重要な軍事拠点で、武田家と徳川家がこの城を巡って激しい争奪戦を度々繰り広げていました。
 天正2年(1574年)に武田勝頼は、父の武田信玄が落とせなかったこの城を、ついに落城させることに成功します。

長篠城を攻めるも、奇襲にあう

 遠江を掌握した武田勝頼が次なる標的としたのが、三河の長篠城(愛知県新城市)でした。
 この城は遠江との国境にある、高天神城と同様に武田家と徳川家が激しく奪い合った城です。
 当初は徳川家に属していたものの、武田信玄の侵攻を受けて武田家に属しました。しかし、武田信玄が亡くなるとすぐに徳川家康が攻め落とし、再び徳川家に属する城となっていました。
 天正3年(1575年)4月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて三河への侵攻を本格的に始め、5月にはとうとう長篠城を取り囲みました。長篠城に籠こもる徳川軍は、わずか500。落城は眼前に迫っていました。
 長篠城を落とされてしまっては、徳川家の三河の支配体制が揺るぎかねません。

 そこで徳川家康は8000の徳川軍に加え、援軍を依頼した同盟相手の織田信長の3万の大軍と共に長篠城の救援に向かいました。
 5月18日、長篠城から4㎞ほど西にある設楽原(したらがはら)に到着した徳川・織田連合軍は、その場に陣を設けて馬防柵(ばぼうさく)を築きました。その中に新助の姿もありました。
 さらに、5月20日の深夜、織田信長は徳川家の重臣の酒井忠次(さかい・ただつぐ)に命じて、長篠城を取り囲む武田家の拠点である「鳶ヶ巣(とびがす)砦」を奇襲によって攻め落とし、武田軍の退路を脅かすことに成功しました。

「待つ戦」を提案するが……

 この砦の落城によって武田軍では、今後の方針を巡って意見が大きく割れました。
 それは「徳川・織田連合軍と一戦を交えるか否か」ということでした。山県昌景ら家老たちは「御一戦なさること、御無用なり」と断固として反対したものの、武田勝頼は「明日の合戦、止めらるまじき(止められない)」と決断したため、武田軍は長篠城の押さえとして残した3000の兵を除く12000の軍勢を決戦の地の設楽原に向かわせることになったのです。
 そして、時は1575年(天正3年)5月21日を迎えますーー。
 この日の明け方、山県昌景は出陣前に武田勝頼の許へ向かいました。勝つための戦術を武田勝頼に提言するためでした。

昌景「合戦をなさろうということならば、この上は御止めいたしません。ただ、こちらから攻め立てる戦いだけはなさるべきではないと思います。

敵に滝川(現・寒狭川)を渡らせて、それを待ち受けて合戦なさるがよろしゅうございます」

 これに対して武田勝頼は、

勝頼「いくつになっても、命は惜しいものだろうな」

 と嘲笑(あざわら)い、聞く耳を持ちません。激怒した山県昌景は「最期の盃(さかずき)」を武田勝頼に進上して、

昌景「我らも戦死をいたす決意ですが、御屋形(武田勝頼)も戦死あそばされましょう」

 と言い残して退出し、馬に乗って兜の緒を締めて、周囲の家老たちと「ここで討ち死にを」と覚悟を決めて、ただちに戦場に向かいました。

馬防柵をめぐり一進一退

 世に言う「長篠(設楽原)の戦い」は、この日の早朝から始まりました。
 序盤は武田軍が激しく攻め立て、馬防柵の外に陣を張っていた徳川・織田連合軍を柵の内側に追い込むなど武田軍が優勢に進めました。
 この戦で山県昌景の「赤備え」1500騎が相手としたのが、新助が属していた徳川軍でした。決死の攻撃を仕掛けた山県昌景は徳川軍を後退させたものの、潰走させるまでには至りません。
 そこで山県昌景は武田軍の陣の左翼に回って、柵のない部分から徳川軍の陣地に攻め込もうと考えました。
 徳川家康はこの作戦を見破り、山県昌景の軍勢を柵の内側へ入れさせないようにただちに命令を下しました。こうして、馬防柵を巡って両軍の一進一退のせめぎ合いが続きます。
 そういった中で「馬防柵を破られてはならない」と、柵の補修を家臣に任せず率先して自分で行う、名のありそうな武将(羽柴秀吉だったと言われる)の姿が徳川・織田連合軍にありました。これを見た山県昌景は、

昌景「あの武者はただの雑兵(ぞうひょう)ではあるまい! あれを討て!」

 と下知して、馬上に立ち上がりました。まさに、その瞬間でしたーー。

「大剛の勇士」即死でも馬から落ちず

 一発の銃声が鳴り響き、銃弾は鞍の前輪から馬上の山県昌景を撃ち抜いていきました。
 銃声の主は、鉄砲の名手・大坂新助。
 新助は「赤備え」を率いる大将と思しき人物の一瞬の隙を狙い、見事に狙撃することに成功したのです。山県昌景は背丈が低い人物だったと言われているので、馬上に立ち上がる頃合いを見計らっていたのかもしれません。
 新助の銃弾を受けた山県昌景は即死だったにもかかわらず、馬からは落ちずに采配(さいはい)を口に加え、両手で鞍(くら)の輪を押さえたまま亡くなったことで、「大剛の勇士」と讃えられたといいます。
 山県昌景の家臣の志村又右衛門は、すぐに主人の亡き骸に駆け寄り、敵に首を渡してなるものかと自身で主君の首を掻き、甲斐に持って帰りました。
 その際に、首のない主人の亡き骸の供養をお願いする旨の書状に短刀の「小烏丸」を添えて置いたといいます。

 合戦後、現地の村人は書状の通りに山県昌景の亡き骸を陣地の横に埋葬し、丁重に弔ったそうです。その墓の横には松が植えられ「胴切松」と呼ばれていましたが、昭和のはじめ頃に枯死(こし)をしてしまいました。
 現在、昌景の埋葬地とされる場所には「山縣三郎兵衛昌景之碑」が建てられ、付近の地名の「山形」は山県昌景に由来するものだとされています。
 また、短刀の「小烏丸」はこの地域の庄屋の峰田家に長く所蔵されていましたが、太平洋戦争の時に供出(きょうしゅつ)され、その後は行方不明になっています。

衰退する武田家、そして滅亡

「長篠の戦い」では、新助による山県昌景の狙撃をはじめ、武田軍は織田・徳川連合軍の火縄銃に苦しめられ、武田家は多くの重臣たちを失いました。

主だった武将には山県昌景と同じく武田四天王に名を連ねる「馬場信春(のぶはる)」と「内藤昌豊(まさとよ)」や、真田昌幸(信繁の父)の兄にあたる「真田信綱(のぶつな)」と「真田昌輝(まさてる)」などがいます。
 この敗戦によって武田家は求心力を失っていき、天正10年(1582年)3月に滅亡を迎えることになりました。
 一方、山県昌景を狙撃した新助のその後は「大坂の陣で武功を挙げた」という大まかなこと以外は分かっていません。その「大坂の陣」では、山県昌景の軍容を継承する真田信繁(幸村)の「赤備え」が徳川軍に猛威を振るいました。
 特に「大坂夏の陣」では、真田信繁の軍勢が徳川家康の本陣に三度にわたって突撃し、「三方ヶ原の戦い」以来、倒れることのなかった馬印が倒されたといいます。
 新助がそれを見たとしたら、「長篠の戦い」の光景が目に浮かんだことでしょう。ひょっとすると、あの時のことを思い出し、山県昌景の時と同じように赤備えの継承者である真田信繁(幸村)を狙撃しようと、火縄銃を構えていたかもしれません。

(『あの方を斬ったの…それがしです ~日本史の実行犯~』より)

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