織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬――日本史上、有名な人物を討ち取ることに成功した実行犯たちがいた一方、計画が未遂に終わった者たちもいた。その中のひとり、「明治維新の元勲・板垣退助を襲撃した小学校教師」の生涯と、襲撃の瞬間に迫る。
日本史の未遂犯 ~明治維新の元勲・板垣退助を襲撃した小学校教...の画像はこちら >>
▲襲撃現場跡の「板垣退助像」(岐阜県岐阜市)

 土佐藩(高知県)出身の志士として「戊辰戦争」で武功を挙げ、新政府の要人として「明治維新」に多大なる貢献をした板垣退助。
 一時、政府を終われ「民撰議員(みんせんぎいん)設立建白書」を提出して「自由民権運動」のリーダー的な存在となり、日本の民主政治の先駆けとして民衆の圧倒的な支持を受けました。
 この板垣退助を“国賊”と見なして襲撃した27歳の小学校教師がいました。その者の名を「相原尚褧(あいはら・なおぶみ)」といいます。

 名を「しょうけい」とも言う相原は、ペリーの再来航を経て「日米和親条約」が締結された3ヶ月後の1854年(嘉永7年)の6月に、尾張の名古屋の御添地(おそえち)(愛知県名古屋市東区)に7人兄弟の長男として生まれました。
 父は200石を領していた尾張藩士の相原仙友で、副家知事という役職に就いていた中の下クラスの武士だったのものの、明治維新後は窮迫していったといいます。

 相原自身は幼い頃、千種(ちくさ)村(名古屋市千種区)の国枝松宇という学者に5~6年ほど漢学を学びました。国枝松宇は中国の古典書である「経史(けいし)」を教材として主に扱い、勤王の志が厚い人物だったそうです。おそらく相原の人格形成や思想に大きな影響を与えたことでしょう。

 相原は、江戸時代の頃には名古屋城に出仕することはなく、明治維新に入って以降も決まった職に就くことはありませんでした。
 17~8歳の時には史跡めぐりをするために、伊勢(三重県)や大和(奈良県)、河内(大阪府)などを回りました。また、21歳を迎える1875年(明治8年)には京都や摂津(大阪府)を回った後に、安芸(広島県)に訪れて旧跡を巡り、2年後の1877年(明治10年)に尾張に帰国しています。


 明治維新後に相原家が窮迫した理由は定かではありませんが、弟たちが既に他家に養子に出ていたことを考えると、相原のこの4年にわたる旅行が原因なのではないかと思えてきます。

 その後、何か思い立ったことがあったのか、1879年(明治12年)1月に、24歳の相原は愛知県県立師範学校に入学しました。師範学校では主に日本と西洋の歴史を研究したといいます。
 好きな歴史上の人物は、中国南宋の王朝の忠臣である「文天祥(ぶん・てんしょう)」。文天祥は自身が仕える南宋が元(げん)によって滅ぼされた後に捕えられて、元に仕官するように勧誘されたものの、南宋に忠節を尽くすために刑死したという人物でした。
 ここに相原の“勤王”や“忠義”の精神のバックボーンを見ることができます。

 さて、相原は師範学校を2年後の1881年(明治14年)の2月に卒業して、同月に丹羽郡稲置村(愛知県犬山市)の犬山小学校で、月給9円(現在の価値で約18万円)の小学校の教員になりました。
 同年の5月には三河の南設楽郡の田原村(愛知県新城市)の学校に転勤し、月給10円となりました。しかし、10月に病気にかかったため2ヶ月間休職しました。病気を治癒させるために「潮風に当たりたい」と考えた相原は、同年の12月8日に知多郡の横須賀村(愛知県東海市)の横須賀小学校(月給8円)に転勤しています。
 この時、相原は27歳と6か月。“国賊”板垣退助を襲撃する4か月前のことでした。

 普段の相原は、謙虚で温厚な一面を持っていたものの、頑固で協調性に欠け、少し短気なところがあり、常に鬱屈として1人で考えすぎてしまう性格だったといいます。そのためか、相原には親友と呼べるような特別な友人もいませんでした。
 相原が転勤する原因となった病状については不明ですが、もしかするとこの性格に起因する精神的な病だったのかもしれません。
 この時より6年前に結婚していたそうですが、間もなく離婚して以降は独身生活を送っていたそうです。

 板垣退助を「国賊」と言う

 相原は政党や政治団体に加盟することなどはしなかったものの、政治上の理念としては「漸進(ぜんしん)主義」を掲げていました。漸進主義というのは、緩やかな社会改革を是とする思想であり、対義語は「急進主義」になります。
 当時、急激な社会改革をもたら急進主義派の中心人物となっていたのが「板垣退助」でした。

 板垣退助は1873年(明治6年)に「征韓論」を巡って政争に敗れて政府を追われて下野(げや)した(明治六年の政変)ものの、翌年に民選の議会の解説を要求した「民撰議員設立建白書」を提出し、民主主義を理念とした政治団体の「立志社(りっししゃ)」を故郷の高知に創設しました。
 これが国会開設や憲法制定を求める「自由民権運動」が全国で活発となる大きなきっかけとなり、板垣退助はその主導者として活動を牽引していきました。

 相原が2ヶ月の休職を始めた1881年(明治14年)の10月12日には、ついに明治天皇により「国会開設の詔(みことのり)」が出され、10年後に国会を開設することなどが表明されました。この勅諭を受けて、6日後の10月18日に急進派により「自由党」が誕生します。この初代党首に就任した人物こそ、板垣退助でした。

党名の通り“自由”を掲げる自由党は、民衆の強い支持を受けていました。
 ところが、相原は板垣退助を“国賊”であると考えました。
 板垣退助は「明治六年の政変」で政府を追われる以前に要職に就いていた時には“自由”や“民権”、“国会開設”などを表明することはありませんでした。しかし、政府を追われた後に「自由民権運動」を牽引して、政治の表舞台に再び登場しました。
 相原はこれを受けて「自由民権運動」は、民衆のための政治活動ではなく、板垣自身が現政府への鬱憤を晴らし、再び己が権力を握るための手段であると捉え、板垣退助は“自由権利を私物のごとく”した“奸雄”であり、“誠の愛国勤王の人にあらざる”と見なしたのです。

「板垣氏が久しく世に立たしむる時、いかなる大害を引き起こさんも図り難し。板垣氏を殺して、社会の禍乱(からん)を未萌(みほう)に防がん」

 板垣退助を弑逆することを決意した相原は、襲撃の6日前にあたる1882年(明治15年)3月31日の夜、弟妹と両親に宛てた遺書を認めました。

 

「我事今や国のために、賊を誅し死す。
我無き後は、御両親様を爾等(おれら:弟妹たち)、協力して以って、孝養すること尚褧一世の願いなり。他は述ぶるに遑(いとま)なし。

十五年三月三十一日 夜認  尚褧
尚宝殿
尚友殿
秋どの
捨どの
尚春殿
隆どの」

「今般、小子尚褧、勤王愛国の情、腹中充満するところより、国賊板垣退助を天誅す。
然(しか)れども上は、国の大典を犯し下しは御両親様を孝養することはあたわず。


実に不孝の罪、謝するに辞なし。小子の如き度々御苦労を相掛くる者、誠に有るにも無きに優るべし。涕泣(ていきゅう)頓首(とんしゅ)。

十五年三月三十一日 夜認  尚褧拝
御両親様
膝下(しっか)」

 この家族への遺書と共に、病気と称して三日間休暇を取っていた職場の横須賀小学校の関係者に宛てた手紙を書いています。

「過日、病気と称し三日三夜、この大事を思考せしなり。その罪を恕(じょ)せよ(許せよ)。爾来(じらい)(これ以降は)、当校の盛大ならんこと小生の願いなり。また、別封は懸父への書き置きなれば、幸いに伝へたまわらんことを。

三月三十一日 夜  尚褧
服部幹樹 吉田江門 両君御中」

 さらに、そこには勤王の強い志が込められた辞世の句が認められていました。

「春風の け(今日)降る里に帰るのは 生きるも同じ 国のためかな」

短刀を購入し、演説会へ向かう

 遺書を風呂敷に包み、寄宿先の押し入れの中に置いた相原は、横須賀村を出立します。
 翌日の4月1日には、名古屋の古渡町(名古屋市中区)の古道具屋で、刃渡り9寸(約27cm)の短刀一振りを1円35銭(現在の価値で約2万7000円)で購入し、大門町(だいもんちょう)(名古屋市中村区)の寄席を見て、花園町(名古屋市中区)の貸座敷(遊女屋)を訪れた後に西魚町(にしうおちょう)(名古屋市中区)の宿に戻りました。
 翌2日は、師範学校の卒業生の親睦会があることを聞いて、同窓生に惜別のつもりで出席し、その場で軽い演説をして寄宿したといいます。


 翌3日は雨天だったために外出をせず、宿で新聞や雑誌などを読み耽っていました。
 この日、相原は板垣退助の動向についての情報を手に入れます。
 それは「自由党の岐阜での懇親会(演説会)は4月5日である」ということでした。

 4月4日の早朝に名古屋の宿を出た相原は、短刀を携えて、人力車に乗り込みました。枇杷島街道を通って清洲(愛知県清須市)に出て、間もなくすると一の宮(愛知県一宮市)に到着しました。そこで人力車を乗り換え、北方村(愛知県一宮市)を経て木曽川の渡しを渡って笠松(岐阜県笠松町)に着き、そこから岐阜に入りました。午後1時頃のことでした。
 懇親会を控えた岐阜の市中は、既に人でごった返していたといいます。

 岐阜に到着した相原は、懇親会の事務所があるという今泉村(岐阜県岐阜市)の旅宿の玉井屋を尋ねました。
 ここで相原は、自由党の支持者を装ったのでしょう、地元の政客たちと議論を交わし、懇親会の会場は、かつて岐阜城が建っていた、富茂登(とみもと)村の金華山(きんかざん)の西麓の中教院(ちゅうきょういん)だということが分かりました。しかも、相原は自由党の賛成員として参加することを許され、会費の1円を即座に納めて、懇親会の鑑札(かんさつ)(入場許可証)を手に入れることに成功しました。
 さらに、この日の宿は決まっていなかったことから、この玉井屋に宿泊することになっています。

自由党関係者からすれば、同宿相手がまさか党首を狙う刺客だとは思いもしなかったことでしょう。

 翌5日、相原は宿を移しました。それは板垣退助やそれに付き従う関係者たちが玉井屋を宿所するためでした。
 午後1時頃に中今町の紙屋という宿に移った相原は、板垣退助がまだ岐阜に到着していないということを知ったため、時間を潰すため岐阜の市中を散策した後に伊奈波(いなば)神社に参詣して、境内入口の劇場の国豊座で芝居を観劇して、午後10時頃に帰宿しています。
 この日の内に、板垣退助は岐阜に到着しました。

 こうして時は、1882年(明治15年)4月6日を迎えます―――。
 早朝に旅宿を出た相原は、再び玉井屋を訪れました。板垣退助に面会を求めたものの、来客が非常に多く12時頃まで待ったが、なかなか順番が来なかったため面会を諦めています。
 相原はこの時、板垣退助を襲うつもりはなく、懇親会で刺殺するために板垣退助の容貌を知っておくために面会を求めていました。面会は叶わなかったものの、相原は板垣退助を目撃して、その容貌を目に焼き付けました。
「後刻また、お目にかかります」
 取り次ぎの者にそう言い残して、玉井屋を後にしました。

 旅宿を出た相原は、午後2時頃に会場の中教院に到着します。
 午後1時から始まっていた懇親会の参加者は、この時はまだ20名ほどだったのものの、3時頃になる時には多くの参加者が集まり、その人数は100名ほどになりました。そして、書生や政客などを引き連れて、ついに板垣退助が会場に姿を現わしました。
 会場に着席していた相原との距離は、3間余(約5.5m)でした。

板垣退助に「ある異変」

 懇親会の有志者3名の祝詞が終わった後、板垣退助の演説が始まりました。
 政府と人民との関係を太陽の求心力と遠心力などに例えて、自由や民権について熱弁します。その演説は2時間に及ぶものでした。
 新しい世の訪れを感じ、熱狂する観衆。しかし、尚褧だけは違いました。

 演説の後、板垣退助は用を足しに一度、会場を離れました。
 これを好機と見た尚褧は、その後を追おうとしますが、日中であることや周囲に案内の者がいたことから臆してしまい、この機を逸してしまいます。
 板垣退助は再び会場に戻りました。会場では板垣退助を慕う自由党の党員たちが次々に演説を行っていきます。
 しばらくすると、板垣退助に、ある異変が起きました。
 実は板垣退助は連日の演説で、喉を痛めて風邪を引き、体調を崩していました。その状況で2時間に及ぶ演説をしたため、体調が悪化してしまい、懇親会の退席を申し出たのです。
 しかも、板垣退助は「会場が乱れるから、見送りはいらない」と関係者に告げて、旅館に帰るために1人で会場を出ることにしました。
 相原にとって、これ以上の好機はありません。後に板垣退助も「自分一人で、実に相原の注文通り、もし相原に注文させたら、あれ以上の注文は無かろう」と振り返っています。
(この機会、失うべからず!)
 相原は素早く会場を出て、玄関で待ち伏せをしました。その手には短刀が握られていました。

 時刻にして、午後6時頃―――。
 板垣退助は靴を履き、玄関を2、3歩ほど出た、その時でした。
「将来の賊!」
 相原は白刃を手に、板垣退助に襲い掛かりました。自身の左手で板垣退助の右の二の腕を掴み、胸元を目がけて刀を突き刺しました。
「何をするか!」
 板垣退助はそう一喝すると、土佐藩士時代に修得した武術の小具足組打(こぐそくくみうち)の術を用いて、相原の脇腹に右肘で強烈な当て身を喰らわせました。
 相原の腹部には激痛が走り、怯んで小刀を握る手が一瞬緩みましたが、再び襲い掛かります。板垣退助は相原の小刀を握りしめる拳を押さえますが、相原は手を捻ってそれを引いたため、小刀は板垣退助の右手の親指と人差し指の間を切り裂きました。
 小刀を引いた尚褧は三度、白刃を板垣退助に突き刺しました。その一刀は胸部を捉え、板垣退助はその場に倒れました。相原はその上に乗りかかり、白刃を強く握りしめました。
 相原に、ついに国賊に止めを刺す時が訪れたのです。

 しかし、その時でした―――。
 異変を察知した自由党の面々が駆け付け、尚褧は突き飛ばされ、短刀は尚褧の手から離れました。そして、続々と駆け付ける党員たちに尚褧は組み伏せられ、縛り上げられてしまったのです。

 この時に板垣退助が残したといわれる言葉は、あまりにも有名です。
「板垣死すとも、自由は死せず」
 この事件を記した新聞や記録史料によって文言が異なっており、板垣退助自身も後年に「あっと思ふたばかりで、声が出なかった」と証言したり、この事件を振り返って「歴史と云うものは誤り易いものであって、そのところにあった事を書くにも違っている」と含みを持たせる言葉を残していたりすることからも、「板垣死すとも……」の名言を実際に言ったかどうかは非常に曖昧です。

事件を機に自由民権運動が加熱

 相原は武芸の心得がなかったことから、刀傷は浅く、結果的に板垣退助は一命を取りとめました。そして、相原にとっては皮肉なことに、この襲撃事件を機に自由民権運動はますます盛んになり、“自由”という言葉が日本中のブームとなって銭湯に「自由湯」という名が付けられた他、饅頭や煎餅などにも自由の名が付いたと言われ、「自由党」は圧倒的に人気の政党となっていきました。

 板垣退助は事件を起こした相原に対して「告訴する考えはない。できれば赦免してやってほしい」と求めたものの、裁判は進み6月28日に岐阜の重罪裁判所にて判決が下されました。
「謀殺未遂罪により、無期徒刑に処す」
 相原は無期懲役の判決を下され、岐阜監獄に入った後、8月7日に岐阜監獄を出て、8月23日からは国事犯を収容する北海道空知集治監(そらちしゅうちかん)に服役しました。
 事件から4年後の1886年(明治19年)12月5日の東京日日新聞には、服役中の相原の様子が記されています。
「品行方正(ひんこうほうせい)よく、獄則(ごくそく)を遵奉(じゅんぽう)し、日々工事に従事する」
 相原は新聞に掲載された模範囚であり、監内で起きた火災の消火活動に尽力したことなどから、典獄(監獄の官吏)も相原に同情をして「減刑」や「特赦」の具申をしたといいます。
 これらの具申は通らなかったものの、1889年(明治22年)に相原に大きな転機が訪れます。この年の2月11日、「大日本帝国憲法」が発布されたのです。
 この発布に伴って「大赦(たいしゃ)」が行われたものの、相原にははじめその御沙汰はありませんでした。これを伝え聞いた板垣退助が明治天皇に上書を奉って相原の釈放を願い出ます。そして、相原は3月29日に大赦となり、出獄をしました。

 出獄した相原は、自分が服役していた監獄の官吏となることを勧められて従事することを決意しますが、その前に東京に赴き、芝愛宕町(東京都港区)のとある人物の邸宅を訪ねました。その人物というのが板垣退助でした。
 板垣邸の取り次ぎの者は、相原の名刺を見て狼狽しましたが、板垣退助は驚くことなく相原と面会をしたといいます。板垣退助を目の前にした相原は、深々と頭を下げて過去の罪を詫びました。相原のこの謝罪に対して、板垣退助は次のように返答したといいます。

「私怨より起ったのではなく、国家のためと思いこんでの事であるから、あえて咎むべきでは無い。万一、板垣の行為にして国家に害ありと認められたならば、再び傷つけらるるも、あえて苦しからず」
(私恨ではなく、国家のためを思っての凶行だったので、罰する必要はない。もし今後、板垣退助が国家に害があると判断したならば、また刺されても恨みはしない)

 謝罪を終えた相原は、その足で、一旦故郷の愛知県に帰りました。
 その後、再上京をするために四日市から船に乗り、遠州灘を航海している時に、相原の姿は突如として消えてしまいます。これ以降の消息は一切分からず、相原は行方知れずになってしまいました。“自殺”だったと言われています。
 しかし、当時から世間ではこれを単純な“自殺”とは判断せず、「政府の関係者が裏で手を回して海に突き落として暗殺した」や「同船の博徒が相原の所持金を奪うために海中に突き落とした」などと噂されました。
 相原の享年は36。その死の真相は、未だに明らかではありません。
 鬱屈して思い込みの激しい性格だったという相原は、ひょっとすると、板垣退助と対面したことで、自分の過ちをより悔やみ、一命をもって償おうとしたのかもしれません。

 相原が使用した短刀は、証拠品として岐阜裁判所に保管されました。その後、競売に掛けられたところを板垣退助に世話になった山本政敏が買い取って板垣守正(退助の孫)に贈りました。そして、1971年(昭和46年)に板垣守正の妻の兄弟が高知市に寄贈し、現在は高知市自由民権館に「板垣總理被害短刀」と箱書されて保管展示されています。
 また、事件現場となった中教院の跡地(岐阜公園)には「自由党總理 板垣退助君遭難地」という石碑と「板垣退助像」が建てられています。

(『あの方を斬ったの…それがしです ~日本史の実行犯~』より)

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