織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬――日本史上、有名な人物を討ち取ることに成功した実行犯たちがいた一方、計画が未遂に終わった者たちもいた。その中のひとり、「織田信長の狙撃を二度試みた伊賀忍者」の生涯と、襲撃の瞬間に迫る。
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▲信長を狙撃したとされる敢国神社(三重県伊賀市)。[写真提供:敢国神社]

 伊賀の郷士だった城戸弥左衛門(きど・やざえもん)は、敵を欺くための「謀術」と火薬や火縄銃を扱う「火術」を極めていたとされ、江戸時代に著された『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』に“伊賀流の忍術名人”の11人のうちの1人として記されるなど、伊賀屈指の忍者でした。
 音羽(おとわ:三重県伊賀市)を拠点とする音羽半六に仕え、通称を「音羽の城戸」と呼ばれていたといいます。経歴は不詳なところが多いのですが、音羽氏の“城”館の門“戸”の側に居住して、城館を守ったことから「城戸」と名乗ったと言われています。

 弥左衛門が住む伊賀は他国と異なり、中央政権から派遣される守護などの支配を受けず、さながら豪族たちの自治によって成立している独立国の様相を呈していました。
 しかし、これを是としない人物が現れました。織田信長です。
 1568年(永禄11年)に上洛を果たして足利義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立した信長は、天下統一を成し遂げるために伊賀のような支配体制を許しませんでした。

 1579年(天正7年)の「第一次天正伊賀の乱」は、そういった政治状況の中で勃発しました。この戦は結果的に、弥左衛門たち伊賀忍者の圧勝となりました。
 伊賀をいずれ平定しようと考えていた信長ですが、この時、信長自身は出陣していません。実は当時から愚将として知られていた織田信雄(信長の次男)が信長に全く相談なく、勝手に出陣してしまったのです。

そして、信雄軍は伊賀忍者たちの神出鬼没のゲリラ戦法に散々に苦しめられ、信雄の重臣や兵士たちが多数討ち死にするなど、甚大な被害を被ってしまいました。
 この惨敗を受けて信長は大激怒し、「親子の縁を切る」という旨の書状を信雄に送りつけています。第一次の合戦における弥左衛門の活躍は伝わっていませんが、その技量から鑑みるに、勝利に大いに貢献したことでしょう。

 信長はこの敗戦を受けて、本格的に伊賀の平定に動き始めます。
 信雄軍に勝利を収めた伊賀忍者ですが、天下人の信長が率いる大軍に攻め込まれてしまってはひとたまりもありません。
 この動きを止めるために、伊賀忍者たちはある策を計画します。それが信長の銃暗殺でした。
 そして、伊賀の有力者たちの評定で、暗殺の実行犯として指名されたのが弥左衛門でした。この暗殺計画の協力者として、信長と1570年(元亀元年)から合戦を繰り広げている石山本願寺の本願寺顕如がいたと言われますが定かではありません。

 農夫に変装して信長を待つ

 1579年(天正7年)の秋、信長は上洛のために近江の膳所(滋賀県大津市)を通過しようとしていました。事前に情報を得ていた弥左衛門は農夫に変装して近くの森に身を隠し、火縄銃を片手に信長が到着するのを待ちました。
 この時の信長は、馬に乗って、朱の傘を差していました。

弥左衛門は信長の姿を確認すると、すぐに狙撃の準備に入りました。
 信長の周辺にはわずかな手勢。狙いを信長に定め、冷静に引き金を引きました。
 銃声と共に大きな衝撃音がありました。信長が狙撃されたことを悟り、慌てふためく信長の近習たち。
(ついに、信長を撃った……!)
 火縄銃の腕に確固たる自信があった弥左衛門には、確信があったことでしょう。しかし、目線の先の喧騒の中には、無傷の信長の姿がありました。
(なぜだ……!)
 信長に向かって真っすぐに放たれた銃弾は、なんと手前の朱傘の柄に当たり、信長を捉えることはできなかったのです。
(なんと運の強い男だ!)
 すぐに近習たちの捜索が始まったため、弥左衛門はその場を離れて、難を逃れました。

 こうして信長暗殺は失敗に終わりますが、この翌日に「謀術」を得意とした弥左衛門ならではの大胆不敵な行動を取ります。
 なんと弥左衛門は、菓子折りを持って信長に拝謁をしたといいます。そして「昨日の狙撃は、おそらく伊賀か甲賀の忍びの仕業です」と言って、自ら犯人捜しの役目を願い出て許されたというのです。


 信長に一杯食わせた弥左衛門ですが、暗殺を失敗したことには間違いありません。そこで弥左衛門は、これから2年後に、再び信長の銃暗殺を試みるのです。

 1581年(天正9年)、信長は自らの差配の下、伊賀の平定に取りかかりました。
 弥左衛門は暗殺の機会を窺っていましたが、5万を超える織田の大軍を相手に伊賀の諸城は瞬く間に陥落していき、その機会はなかなか訪れませんでした。そして1ヵ月もしない内に伊賀は織田軍に制圧され、伊賀の村や寺院は焼き討ちにあい、郷士たちだけでなく住民たちの多くも殺害され、伊賀は地獄絵図と化したそうです。

 故郷のその惨状を見た弥左衛門は信長を深く恨み、同じく伊賀の郷士の原田木三と印代(いじろ)判官と共に、信長の銃殺の計画を立てました。三人は普段から仲が良く、1人で四貫目(約15㎏)の米を平らげるほどの大食漢同士で、文学に暗く、無学でわがままという共通点があったといいます。
 弥左衛門を中心とする似た者同士の3人組は、その計画を実行に移します。現場となったのは敢国(あえくに)神社(三重県伊賀市)でした。
 伊賀平定直後の10月10日、伊賀の検分に訪れていた信長は休息のために敢国神社を訪れていました。この神社は伊賀の総鎮守とされた一の宮で、いわば伊賀忍者たちの精神的支柱とも言える神社でした。弥左衛門たちは、神社周辺の地理は自分の庭のように知り尽くしていたことでしょう。

 恨みの念を込め、大鉄砲を構える

 信長は、1582年(天正10年)の「本能寺の変」の失敗でも分かるように、出征の際には大軍を率いることなく、わずかな手勢で出向くことが多い人物でした。そのため弥左衛門たちは、敢国神社の境内に忍び込むことに成功し、狙撃の準備に入りました。
 用いた武器は大鉄砲。詳しい形状は不明ながら、普通の火縄銃よりも銃弾が大きく、銃身が長い複数人で放つ火縄銃だと考えられます。

 そして、弥左衛門は伊賀に地獄をもたらした魔王に照準を合わせました。
 恨みの念を込めて引き金を引くと、巨大な銃弾が信長の陣営に襲い掛かりました。
(やったか―――)
 騒然となる陣営に目をやると、その銃弾の餌食となった者が7、8人倒れていました。しかし、その餌食の中に信長の姿はありません。なんと、信長は再び無傷でした。鉄砲の名人である弥左衛門の銃弾はなぜか信長を逸れて、近習たちに当たったに過ぎなかったのです。
(悪運の強い男め!)
 すぐに近習たちの捜索が始まったため、弥左衛門たちは飛ぶ鳥の如く、その場を逃げ去りました。近習たちは弓矢を放ちながら弥左衛門たちを追い掛けます。

弥左衛門たちは周辺の地理を知り尽くしていたため、近習たちの追撃から何とか逃げ切ったものの、2度目の信長の銃暗殺計画も失敗に終わってしまったのです。

 その後、信長の捜索は執拗に続きました。その包囲網から何とか逃れていた弥左衛門ですが、ついに捕縛されてしまいます。原因は身内の伊賀忍者の裏切りでした。
 弥左衛門には、かつて部下だった宮田長兵衛という伊賀の郷士がいたのですが、この宮田が毒を盛って弥左衛門の動きを封じ、仲間と共に縛りあげて、信長がいる安土に突き出してしまったのです。

 弥左衛門は安土の牢獄に入れられ激しい拷問を受けました。この時、協力者とされる本願寺のことは一切漏らさず、伊賀やその郷民たちを多く害したことに恨みがあるということを堂々と述べたといいます。これに激怒した信長から命じられた処刑の執行が迫るある夜、弥左衛門は、最期の意地とばかりに、門番を欺いて短刀を奪い、牢獄を脱走しました。
 しかし、すぐに松明を手にした多勢の追手が迫り、見知らぬ安土という土地でもあり、弥左衛門は逃げ隠れる術はなく万策尽きてしまいました。
 そして、手にしていた短刀を用いて、自ら生涯を終えたのでした。

 弥左衛門にまつわる史跡などは、ほとんど残されていませんが、信長を大鉄砲で狙撃したと言われる敢国神社は、現在も弥左衛門の故郷の伊賀を見守り続けています。

(『あの方を斬ったの…それがしです ~日本史の実行犯~』より)

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