開高健氏が釣りの師匠の一人として深い交流があったのが井伏鱒二。彼もまた、小説を書きつつ、自らの釣行に関する作品を発表している作家の一人だ。
「井伏さんの釣りの原体験は磯釣りにあるのです」と、ふくやま文学館館長の岩崎文人さん。広島県福山市は井伏が生まれ育った土地。同館では、彼の生涯や貴重な資料を常設展示している。
「井伏さんの鮮烈な釣魚体験は明治38年(1905)、7歳の時に祖父に連れられて鞆の浦の仙酔島に逗留し、釣り上げたチヌです。『初めて海を見た』と記されている『雞肋集』に“一尺くらいな大きなチヌ”と書かれています」。
病弱だった井伏は1年遅れで尋常小学校に入学したばかり。かなり強い心象だったに違いない。
「大正11年(’22)に早稲田大学を中退する頃、フナ釣りをやるように。
昭和2年(’27)、荻窪に引っ越した頃は、自宅近くの竹細工屋で購入した竿で、近くを流れる善福寺川でフナ釣りを楽しんだ。
「太宰治は昭和5年(’30)に東大仏文科に入学し、井伏さんに弟子入りします。しばらく後、井伏さんが善福寺川に出かける途中、やってきた大宰に近くの釣具屋で安物のハヤ釣りの支度を一式揃えてやって、一緒に釣りをします。結局一匹も釣れなかったそうですが、太宰にとっては、それが記憶に残る釣り体験になったはずです」。
太平洋戦争初期は陸軍に徴用されてシンガポールに滞在したこともあったが、末期から戦後の3年間は甲府や郷里に疎開していた。
「本格的に釣りに熱中し始めるのは戦後です。取材旅行に行くにしても、どこにでも必ず竿を担いで行くほどになります」。
釣行は全国各地にわたり、特に伊豆や甲州の渓流によく通い、同時に海釣りにも行っていた。
「“酒も美味いぞ”と飽きずに何度も通ったのが、山梨の下部温泉、源泉館を常宿にしていました。伊豆では河津周辺です」。
その様子は現在、講談社文芸文庫から刊行されている『釣師・釣場』に描かれている。
「井伏さんの釣りは自然に溶け込むスタイルです。竹竿を愛し、生餌を使ったものでした。弟子の開高健さんとは正反対です」。
開高は『完本私の釣魚大全』の中で、ある湖に一緒に釣行した時の事をこんな記述をしている。
“岩波氏(当時の『新潮』編集者)は始終、老師の横につきそうかのようにして竿をだしたが、この御二人の釣りはイクラを餌にして浮子(うき)をつけての古式釣法である。私はルアーとフライをたくさん持っていったのだけれど〈中略〉ルアーはやめにしてフライで行くことにきめた”。老師とは井伏のこと。彼らは3日間滞在したが、2日目まで釣果なし。ところが…“三日目の午前中、これが最後のチャンスだとしてやったところ、老師がみごとに穴場をさぐりあて、尺鱒の入れ食いとなって、ビクが破れそうになるほど釣れた”。
その後彼らは東京に戻り、井伏が馴染みにしている飲み屋に直行。釣果分けをするが、井伏は自分からは自慢話は一切しない。
“私たちがめいめい口ぐちに保証したので。師の名誉は完全に確保され、高揚されたのだった”(『完本私の釣魚大全』より)。
「自然の中で微妙な魚とのやりとりを楽しむのが好きで、手柄話を極力避けました。自慢話をしなかった釣り師というのが、一番的確な表現ではないでしょうか。『川釣り』や『釣師・釣場』を読んでいると、それがよくわかります」。
絢爛豪華な言葉を使って表現する開高。自分を含めた釣りと自然の風景を愛し、落ち着いた文体で書き綴る井伏鱒二。対照的な師匠と弟子だからこそ、ふたりは惹かれあったのだろう。