一九四一年の日米開戦までの間に、ソ連は、日本の軍略上の政策を、「対ソ警戒の北進論」ではなく、「英米との対立を引き起こす南進論」へと誘導するよう政治工作を仕掛けました。実際にその政治工作を担当した首謀者はリヒャルト・ゾルゲというドイツ人の共産党員であり、赤軍情報部の工作員でした。
ゾルゲ機関の対日工作と並行して、アメリカでは、日米交渉を徹底的に妨害し、かつアメリカ政府内で日本への対日強硬論を煽ることによって、日米を開戦に追い込む作戦が行われていました。
この対米工作を指令したのはソ連のNKVD(内務人民委員部の略称で、KGBの前身)のアメリカ部門トップのヴィタリー・パブロフです。そしてパブロフの指令を受けて積極工作を実行したのは、アメリカ財務省の次官補、ハリー・デクスター・ホワイトでした。
アメリカが日本に突きつけて日米開戦の直接の引き金になったとされる「ハル・ノート」の原案をホワイトが書いたことは、今ではかなり広く知られているのですが、実際にはその原案は、ソ連の諜報機関NKVDがホワイトに指示して作成されたものだったのです。
このことは、ヴィタリー・パブロフ自身によって一九九五年に明らかにされました。ホワイトという名前との連想から「雪」作戦(Operation Snow)と名付けられたこの工作は、最初に諜報と防諜に関するロシアの雑誌に寄稿した記事で(「雪作戦について語る時が来た」、『諜報と謀諜のニュース(Novosti razvedki i kontrrazvedki)』9-10 and 10-11, 1995)、次に書籍で(『「雪」作戦』(Operatziya“ Sneg,”Gaya, 1996)書かれています。
記事も書籍もロシア語で邦訳がなく、英訳も出ていませんが、パブロフの書籍に基づいて雪作戦を解説している英語の本があります。
日本語では『ハル・ノートを書いた男』(須藤眞志【すどうしんじ】、文春新書、一九九九年)がありますが、これは新書で入手しやすいので、ここでは、『スターリンの秘密工作員』(前掲)の著者の一人であるハーバート・ロマースタインが別の著者と共著で出している『ヴェノナの秘密(The Venona Secrets)』(Herbert Romerstein and Eric Breindel, Regnery History, 2000)を用いて解説します。
須藤氏の『ハル・ノートを書いた男』はNHKが番組収録のために行ったパブロフのインタビューを詳しく載せているので、ぜひ読み比べてみてください。
ホワイトはボストン生まれで、高卒でいったん社会に出てから第一次大戦に従軍し、帰国後にスタンフォード大学で学びました。その後ハーバード大学で経済学を学んで博士号を取っています。
一九三四年に財務省に就職し、国際財政の専門家として頭角を現し、モーゲンソー財務長官の信頼を得て事実上のナンバー・ツーに登り詰めました。
ホワイトはモーゲンソー財務長官の懐刀【ふところがたな】として重用されました。
モーゲンソーはホワイトに財務省代表として他の省庁との調整にあたらせ、第二次大戦中に作られた戦時諜報局(略称OSS。CIAの前身。各戦線の情報収集や分析、諜報活動などを担当した)の企画グループにも財務省を代表して参加させています。
学歴や公的な経歴を見る限り、ホワイトはエリート街道まっしぐらの俊秀そのものです。エコノミストとして世界的な影響力も持っていました。一九四五年に創設された国際通貨基金(IMF)は、ホワイトの提案に基づいて組織されたものです。
その一方で、ホワイトは政府内の共産党地下組織で活動していました。
共産党員ではなかったので、『ヴェノナの秘密(The Venona Secrets)』(p.31)はホワイトを「非党員ボルシェヴィキ」と形容しています。
同書の定義によれば、非党員ボルシェヴィキとは「共産党員と同様にアメリカ国内でのソ連の勝利のために献身するが、個人的な理由で完全な党籍は取らなかった者」を意味します。
元共産党員のウィテカー・チェンバーズは、一九三五年から一九三八年まで政府内地下組織とソ連の軍情報部との連絡係を務め、その地下組織にホワイトがいたと証言しています。ホワイトは党員ではないので党費は納めていませんでしたが、財務省の機密情報をチェンバーズに渡していました。
(『日本は誰と戦ったのか』より構成)
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