第二次世界大戦期、ソ連軍の優秀な新型戦車「T-34」に対抗するためドイツ戦車開発陣が送り出した、特殊車両番号Sd.Kfz. 171、5号中戦車Panzerkampfwagen Vパンターの活躍を描く連載、第4回。
連合軍戦車にとって“悪夢”のような存在となった、ドイツのパン...の画像はこちら >>
ノルマンディー戦区で行動中のパンターG型。
装甲の補助として砲塔の側面に多数の履帯をぶら下げ、ヤーボ(ドイツ語のヤークトボンバー、つまり戦闘爆撃機の略)の通称で呼ばれる対地攻撃に従事する連合軍戦闘爆撃機の目をくらますため、植生を用いた偽装が施されている。 ■早すぎた実戦投入

 パンターの初陣は当然ながらD型であり、それは1943年7月のクルスクの戦い「ツィタデレ」作戦であった。同作戦は、もちろん他にも遅延の要因はあるのだが、本車の出撃準備が整うまで、ヒトラーによってその発動が遅らされたといわれることもある。
「ツィタデレ」作戦には、第39戦車連隊の第51と第52の両戦車大隊が1個大隊当たり96両、連隊本部に8両の計200両のパンターD型をもって参加したが、作戦開始後わずか5日で修理中131両、全損車31両、可動車38両という数字が報告された。新型戦車の初期トラブルを無視した「早すぎた実戦投入」の悲劇である。とはいえ、その優れた火力と装甲防御力は高く評価された。
 このような初期トラブルが解消され、乗員や整備兵がパンターに習熟すると、本車は連合軍戦車にとって悪夢のような存在となった。ソ連のT-34、アメリカのM4シャーマン、イギリスのクロムウェルとチャーチル、どれも本車にはまるで歯が立たなかったのだ。

■バルクマン・コーナーの死闘

 1944年6月6日にノルマンディーへと上陸した連合軍に対して、ドイツ軍は必死の防戦を展開。だが物量にものをいわせた連合軍は、着実に内陸部への浸透を進めていた。
 同年7月27日、強力なアメリカ軍車両縦隊がサン・ローからクータンスに向けて進撃中だった。同方面の防衛に任じていた第2SS装甲師団ダス・ライヒは、うち続く激戦によりすでに満身創痍の状態だったが、第2SS戦車連隊第4中隊のエルンスト・バルクマンSS曹長は、愛車のパンターA型424号車をもって敢然と立ち向かった。


 バルクマンは、ロレー街道と国道172号線が交差する十字路の脇にそびえた巨大な樫の木陰に愛車を停止させると、伏撃の態勢をとった。やがて、件のアメリカ軍車両縦隊が近づいてきた。
「まず先頭のM4を始末する!それから順に後ろを叩く。落ち着いてしっかり狙え。撃ち損じて撃ち直すよりも、丁寧に照準して確実に撃破したほうがタイム・ロスが少ない」

 

 424号車は約200mの距離で先頭のM4を撃破し、後ろに続く多数の車両を順に仕留めていった。撃破数はM4だけでも9両。だが直後に近接航空支援を担うアメリカ軍のP47サンダーボルトが飛来して対地攻撃を実施。さらに側面に回り込んだM4からの射撃を受けて424号車は損傷したが、何とか後退できた。
 この戦い以降、同車が死闘を交えた十字路は「バルクマン・コーナー」と称されるようになり、戦車エースに名を連ねることになったバルクマンは同年8月27日、栄光の騎士鉄十字章を受章した。

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