日本で最初に用いられた元号は「大化」である。その初出は『日本書紀』の第36代孝徳天皇の巻。「皇極天皇4年(645)を改めて大化元年とする」という内容が記されている。
そもそも元号とは紀年法のひとつで、皇帝や王が即位した際や、天変地異などの要因により変更(改元)される有限のものだ。その起源は中国の前漢時代、紀元前115年頃まで遡る。武帝(ぶてい)による統治初年に遡り「建元」という元号が創始され、清(しん)が滅亡するまで中国ではさまざまな元号が用いられた。冊封(さくほう)体制に組み込まれた国々は、中国と同じ元号を使っていたのだ。
大化という年号が定められた時、大陸には唐という強大な国家が周辺諸国を席巻。朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)も、その圧力の前に屈服している。そのような状況の下、あえて日本独自の公的年号を創建したのは、独立の意気を示そうとしたと考えられる。
孝徳天皇は大化に続いて白雉(はくち)と改元するが、両方を合わせても10年に満たない。
この空白期間の背景について、『歴代天皇・年号事典』の編者・米田雄介さんはこう語る。
「大化以前の年号は私年号であって、公的な年号の始まりは、やはり大化からだと考えられます。年号は中国で発明され、周辺諸国に普及しました。日本でも全国を統治するには中国と同じように、元号が必要と考えたのでしょう。『日本書紀』によると、白雉や朱鳥は天皇の政治を称えるものとあります(後述)。だから孝徳天皇、天武天皇の治世が終了すると、次期天皇の代では使用されませんでした」。◆文武天皇の御代に制度として確立した
日本で元号が確立するのは、文武天皇が701年に「大宝」という元号を定めた時。以来、継続的に元号が用いられている。この年、日本で初めての律令である『大宝律令』が制定された。
「文武天皇が即位した時、即位礼を行う儀式の場が整備されました。それは『法式備わりし』と記録されています。この時代に中国的な国家体制が整備されたのでしょう。さらに以後は公文書に年号を用いることと、干支(えと)は使わないことが決められました」。
元号は天皇の代替わりの際に改元する「代始(だいし)改元」を根本原則と
した。しかし何かおめでたい出来事があった際にあやかる「祥瑞(しょうずい)改元」や、逆に天変地異などが起こったことで縁起の悪い元号を改元することも多かった。
祥瑞改元から考えると、白雉は白い雉(きじ)、朱鳥は赤い鳥が見つかったという、おめでたい出来事から来ているとされる。他にも珍しい亀に由来する神亀(じんき)なども当てはまる。古くはそうした吉祥を専門に調べる役所が存在していたのだ。
代始改元の場合、先帝の崩御や譲位が行われた後、すぐに元号を変えるのは先帝に対してあまりに失礼。その年末までは前の帝の年として、年が変わると同時に改元するのが「孝子の心」に叶うという、儒教的な考えも強かったため「踰年(ゆねん)改元」が原則となった。
大宝期に定められたルールは大きく変わることはなく、今日に至るまで日本独自の元号は途切れることなく連綿と続いてきたのだ。
〈雑誌『一個人』2018年5月号より構成〉