人は何故、何のために生きるのか。世界の始まり、そして終わりはどのようなものなのか……。生きていく中で、多くの人々を悩ませる難問である。哲学者、文学者、宗教家、芸術家、科学者たちは、この簡単に答えられない難問に対して答えを出すため、必死に取り組んできた。
なんとかしてある答えにたどり着いたとしても、やがて他の者が否定し、乗り越える答えを出してしまう。その答えもまたいずれ否定され、乗り越えられてしまう。
絶対に正しい究極の答えがわかれば、人間は悩みから解放されて生きていけるようになるだろう。だが、ある答えが提示されてもそれがやがて否定されてしまうのであれば、人間は永久に悩みから解放されることはなく、苦しみ続けることとなる。
古代ギリシアの哲学は、自然界の正しい姿を知り、その背後にある根源的な原理を知り、正しい生き方を知ることを目指していた。だが、哲学者たちがどれだけ時間と労力をかけて議論を尽くしたところで、全ての者が一致できる真理に到達することはなく、議論は果てしなく続いていった。
しかし、そもそも「答え」などあるのだろうか……?
哲学者ピュロンは、人が生きる理由や目的も、万物の根源や究極の原理に対しても、誰も完全な答えを出すことができないと考えた。
ピュロンは紀元前360年頃、ギリシア西部のエリスで生まれた。アレクサンドロス大王と凡そ同年代である。若い頃は貧しい画家だったが、やがてアレクサンドロスの宮廷に仕えていた哲学者アナクサルコスに弟子入りし、共にマケドニア軍の遠征に帯同して、インドまで旅することとなった。
アレクサンドロスは少年時代にアリストテレスを家庭教師として勉強したためか、哲学に関心が高く、インドでも裸の行者たちと積極的に議論を行うほどだった。遠征に帯同していたピュロンもこの時、インドの哲学者、宗教家たちの教えを聞き、強く影響を受けたようだ。そのせいもあってか、彼の哲学にはインド的、東洋的な発想に近いものも感じられる。
ギリシアに戻ったピュロンは、友人や弟子たちと共に哲学を深めていった。彼の教えとして知られているのは、物事の真理は把握できないということ、何事においても判断を留保しなければならないということ、何ひとつ美しくもなければ醜くもなく、正しくもなければ不正でもないということ、「あれである」よりもむしろ「これである」ということはなく、人々はただ法と習慣に従って生きているということ……などである。
同時代の他の哲学者たちは「〇〇とは××である」というように「答え」を言い切る主張をしていた。だが、ピュロンは「どの言明にも、それと対立する言明がある」と言った。
「〇〇とは××である」というような形で何かが答えとして判断されるためには、正しい規準に基づいて論証されなければならない。だが、正しい規準が見出されるためにはそれに先立つ論証が必要となる。このような堂々巡りに陥ってしまうため、正しい規準も論証も、それ自体で把握されることができない。循環論法や無限背進に陥らないためには、人は何かを真理として判断することを差し控え、物事をあるがままに受け入れなければならないのである。
懐疑論は否定のための哲学ではなく、肯定も否定もせずに判断を留保することで心の平静さを保つための実践的な生き方の哲学である。死後の世界はあるかどうか、死後の魂はどうなるのか、天国や地獄はあるのか……そういった問いに対して、肯定も否定もしないことで、自らが死んだ後のことについて思い悩むこともなく、平静な心境で生きられるようになるだろう。
■危ない目にあっても平然と受け入れたピュロン実際、ピュロンはどんなことでも平然と受け入れる生き方をしていた。道を歩いている時に馬車が来てもそのままぶつかりそうになったり、崖の近くに来てそのまま落ちそうになるというようなことも多く、いつも危ない目に合うところを友人に助けてもらっていたようだ。
師匠のアナクサルコスが沼に落ちたのを見ても、彼は助けようとせずにそのまま通り過ぎてしまったり、会話をしていて、途中で相手がいなくなってしまっても、そのまま一人で何事もなかったかのように話し続けていたとも言われている。
嵐で荒れた海を航海する船で、他の者達が動揺する中、ピュロンだけは平静な様子を保っていた。そして、激しく揺れる船の中でも一心に餌を食べ続ける豚を指差し「賢者はこんなふうに心の乱されない状態に身を置かなければならない」と言い、一緒に旅していた人たちを感心させたこともあった。
とはいえ、一度もその平静を乱したことがないわけでもないようだ。ある時、道を歩いていると突然犬が飛びかかってきた。ピュロンはとても驚き、狼狽してしまった。その様子を見て、日頃の彼の言説とは異なる態度を批判する者もいたが、彼は「人間であることを完全に脱却することは難しいよ。でも、まずは態度によって可能な限り事態に対処しなければならないし、それが難しいならせめて言葉によって対処しなければならない」と答えた。
■ピュロンの生き様から学ぶことピュロンは90歳近くになるまで生きたと言われているが、どのような死に方をしたのか、はっきりとしたことはわかっていない。おそらく彼は、生涯を通して心の平静さを保ったまま、悩み事に煩わされることもない人生を送ったのだろう。
古代と変わらず、現代を生きる私たちも、人生において悩みを抱くのは心の平静を乱される時である。
何のために自分は生きれば良いのか、何故自分の望み通りに物事が進まないのか、あの人はどうして自分の気持ちをわかってくれないのだろうか、努力をしても報われないのは何故か……。
生きていれば期待は失望に変わり、愛情は憎悪へと裏返り、他者への嫉妬や羨望の情は止め処なく湧き出てくるものだ。
そんな心の苦しみを感じた時には、ピュロンのように一度、物事に対する肯定や否定の判断を留保して、あるがままに受け入れてみると良いのかもしれない。他者の気持ちや行動を思い通りにコントロールすることなどできないし、世の中に起きるほとんどの物事も自分の力ではどうにもできない。他者の在り方や身の回りに起きることをただあるがままに受け入れるしかない。そう考えれば、次第に心の平静を取り戻し、悩みから脱却して、安楽の日々を送れるようになるのではないだろうか。