江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。

 吉原と聞いたとき、まず「太夫」を思い浮かべる人は多いであろう。
 太夫は吉原遊廓の最上級の遊女の称号である。太夫ともなると美貌はもとより、高い教養もあり、まさに才色兼備だった。また、その性技は秀逸で、男をとりこにした、と。さらに、大名や豪商すらはねつけるほどの誇りと意地があったとされる。
 そんな太夫のなかで、もっとも有名なのが三浦屋の高尾であろう。

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写真を拡大 図1『古代江戸絵集』、国会図書館蔵

 図1は、「三浦屋高尾」と記されている。
 三浦屋は吉原でも超一流の妓楼だった。その三浦屋で代々継承された太夫の名称が高尾で、七代までいたとも、十一代までいたともいわれる。図1の高尾が何代目かは不明。ともあれ、図1を見ると、
「やはり、太夫はすごいな」
 と感じる。

 ところが、この太夫の称号は宝暦年間(1751~64)に廃止され、それまでは複雑だった遊女の階級も、

 花魁(上級遊女)―新造(下級遊女)―禿(遊女見習い)

 に簡素化された。


 現在、時代小説やテレビ・映画の時代劇の舞台になる吉原は、もっぱら文化元年(1804)以降である。ということは、小説や時代劇の吉原には、すでに太夫はいなかった。逆に、太夫が登場すれば時代考証の誤りということになろう。

 さて、図1の絵師は歌川豊国である。
 豊国は明和六年(1769)に生まれ、文政八年(1825)に死去した。なんと、豊国が生きた時代、すでに吉原に太夫はいなかった。豊国自身、太夫を見たことはなかったのである。
 では、豊国は何を根拠に三浦屋の高尾を描いたのだろうか。写真などの映像記録もなかった時代である。
 けっきょく、豊国はまったくの想像で高尾太夫を描いていたのだ。
 では、実際の高尾太夫の姿はどうだったのか。

吉原の太夫は幻想? 実はこんなに地味な姿だった
写真を拡大 図2『けいせい色三味線』(江島其碩著、元禄14年)、国会図書館蔵

 図2は、「太夫道中」とある。

三味線を肩にかついだふたりは禿、そのあとに太夫。最後の前垂をした女は遣手であろう。
 図2の刊行は元禄十四年(1701)だから、吉原に太夫が存在した時代である。絵師は実際に太夫を見たことがあった。つまり、想像だけで描いたのではない。それにしても、太夫の風俗は素朴といおうか、質素といおうか。
 図1と図2の落差は、いったい何なのだろうか。

 

 一般に平和な社会であれば衣食住など、人々の生活水準は徐々に向上していく。図2と図1のあいだは、およそ百年以上のへだたりがある。
 現在ほど変化は速くなかったにせよ、江戸時代も天下泰平が続いただけに、約百年たてば、衣食住の水準は確実に向上していたはずである。
 図2が描かれた時代より、図1が描かれた時代の方がはるかに華美で、贅沢になっていた。つまり、
 図2の太夫は、絵師が実際に見た、ほぼ実像。


 およそ百年後に描かれた図1は、豊国が当時の吉原の遊女を見て、それを過去に反映させ、想像で描いた虚像。
 ということになろう。
 図1にかぎらず、後世に描かれた太夫ほど、そのいでたちは豪奢になっている。

 もうひとつには、出版文化の発展があろう。
 江戸時代初期には墨一色だった木版画は、後期になると多色刷りの錦絵にまで発展した。つまり、もはや太夫がいなくなった時代になってから、太夫は極彩色の錦絵に描かれ、
「昔の太夫はすごかった」
 というイメージを形成したのである。
 実際の太夫は、図2のような姿だった。

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