『魏志』、「七支刀」に隠された神功皇后が卑弥呼である理由とは?
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月読神社の月延石 神功皇后には、三韓征伐の際、石でお腹を冷やすことで出産を遅らせた鎮懐石伝説の他に、石を撫でることで、安産を導いた月延石の伝説もある。■『日本書紀』の編纂者は、卑弥呼と神功皇后を同一視

 神功皇后は架空の人物とする説が有力であるが、それならば、神功皇后像は一体、どのようにして生み出されたのであろうか、という点が気にかかる。

つまり、『古事記』や『日本書紀』の編纂者たちは、神功皇后をどのようにとらえていたのであろうか、ということは興味深い問題といえよう。

 この点については、さまざまな説が入り乱れているが、その中でも、神功皇后は卑弥呼である、という説は古くからいわれていることであり、少なくとも江戸時代くらいまではそのように考えられていた。神功皇后に卑弥呼のイメージを重ね合わせる考えには、単なる思いつきではなく、それなりの根拠がみられる。そのひとつは、両者には巫女的な性格があるということである。つまり、神懸りして神の意思を伝えることができたという点である。さらに、『日本書紀』にみられる神功皇后の条、すなわち神功紀の記事が注目される。

 神功紀を具体的にみるならば、まず、神功皇后摂政39年条が注目される。ここには、『魏志』倭人伝が引用されており、魏の皇帝である明帝の景初3年(239)6月に、倭(日本)の女王が大夫である難斗米(難升米)らを朝鮮半島の帯方郡へ遣わし、さらに、皇帝への会見を求めてきたとある。そこで、帯方郡の太守であった劉夏は、難斗米ら使節一行を魏の都へ送ったというのである。

 景初3年(239)という年は、卑弥呼が魏へ使節を派遣した年として有名である。この景初3年をめぐっては、興味深いことがいわれている。というのは、明帝はこの年の正月に亡くなっており、卑弥呼が遣使した6月の段階には斉王芳が即位している。

したがって、明帝の景初3年6月といういい方はおかしいということになるのである。

 しかし、このことはさておいて、引用された『魏志』倭人伝の中にみえる倭の女王とは卑弥呼のことである。この点を重視するならば、『日本書紀』の編纂者は、卑弥呼と神功皇后とを同一視していたとも考えられるのである。
『日本書紀』の中にみられる『魏志』倭人伝の引用ということでは、さらに、神功皇后摂政40年条にも記述がみられる。その内容は、魏が正始元年に建忠校尉である梯携らを倭国へ遣わして、詔書と印綬を与えたというものである。ちなみに、ここにみられる正始元年とは、240年のこととされる。

 

 これらに加えて、神功皇后摂政43年条にも『魏志』倭人伝が引かれている。それによると、正始4年に倭王が大夫の伊聲耆・掖邪狗ら8人を魏へ送ったとある。この中に出てくる倭王もまた、卑弥呼のこととされている。
『日本書紀』では、神功皇后摂政紀に続く神功紀でも新羅や百済などとの交渉記事がみられる。その中には、七支刀が百済から伝来したという有名な記事もみられる(神功紀52年条)。これらのことから、『日本書紀』では、神功皇后と卑弥呼とを同一に考えていたともいわれるが、これには異論もあり、簡単に断定することは難しい。

 卑弥呼の他にも神功皇后との関連を女帝に求める説がみられる。たとえば、初の女帝として知られる推古天皇や、夫の天武天皇の後を受けて律令制の導入を進めた持統天皇があげられるが、655年から661年にかけて在位した斉明天皇も有力である。

 斉明は、舒明の死後、642年に皇極天皇として即位し、645年の乙巳の変で孝徳に譲位したが、孝徳の死後にふたたび重祚して天皇になった人物である。斉明の時代には百済の滅亡といった大事件があり、百済を救うために天皇自らが先頭に立って軍勢を派遣したが筑紫の朝倉宮で没した。こうした朝鮮半島への出兵という点が神功皇后とイメージが重なるのである。

(次回に続く)

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