『譚海』(津村淙庵著、寛政7年)に、次のような話が出ている。
吉原の大文字屋の楼主市兵衛が安永七年(1778)の冬、神田岩槻町にある屋敷を千二百両で買い取ることになり、手付金として二百両を渡した。
売主が名主に届け出たところ、楼主に土地を売ることはまかりならぬと言い渡された。やむなく、売主は市兵衛に契約の破棄を申し出た。
しかし、市兵衛は納得せず、名主の不当を町奉行所に訴え出た。
町奉行所の裁決は、女郎屋(妓楼)の楼主は賤業であり、その賤しい身分をわきまえず、江戸城の近くに土地を買うなど、「甚だ不届き至極」というものだった。
この例からもわかるように、吉原の楼主の社会的地位は低かった。楼主は俗に忘八と呼ばれた。忘八とは、
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌
の八つを忘れた人非人という意味である。まともな人間とみなされていなかったことになろう。
『世事見聞録』(文化13年)は、遊女の境遇には同情を示しながらも――
ただ憎むべきものはかの忘八と唱ふる売女業体のものなり。天道に背き、人道に背きたる業体にて、およそ人間にあらず、畜生同然の仕業、憎むに余りあるものなり。
と、楼主を痛罵している。
このように、楼主は社会的にさげすまれる存在だったが、実際には多くの人が、その楼主が経営する妓楼で遊んでいたのである。少なくとも、楼主がいなければ妓楼は成り立たなかった。
写真を拡大 図1『昔唄花街始』(式亭三馬著)、国会図書館蔵図1は、楼主が内所で女に肩をもませているところである。
楼主の居場所を内所といい、妓楼の一階にあった。図1でもわかるように、内所からは一階のすべてを見通せた。
楼主は内所に座り、遊女や奉公人一同の動き、客の出入りなどに気を配っていたわけである。
吉原でも、大見世と呼ばれるような大きな妓楼になると、遊女と奉公人を合わせおよそ百人もの所帯だった。さらに、日夜、多くの客が出入りするし、いろいろな悶着も多かった。
楼主にかなりの経営手腕と管理能力がなければ、妓楼はとうていやっていけなかった。
また、楼主のなかには教養人もいた。
江戸町一丁目の大見世「扇屋」の楼主は、俳名を墨河という俳人で、山東京伝と親しかった。
京町一丁目の大見世「大文字屋」の二代目楼主は、狂名を加保茶元成といい、狂歌の吉原連の指導者で、大田南畝とも交流があった。
大田南畝はその著『奴師労之』(文化十五年)に、大文字屋の初代楼主について、次のように書いている。
もともと河岸見世と呼ばれる低級で格安の妓楼を経営していたが、安いかぼちゃを大量に買い込み、遊女の惣菜はかぼちゃばかりだった。こうして金をため、京町一丁目に大見世を持った。
このため、人々は初代にかぼちゃというあだ名をつけた。
初代にかぼちゃのあだ名があったのを逆手に取り、二代目は狂名を加保茶元成としたのであろう。
二代目が文化人だったとしても、もとをただせば初代が粗食で遊女を酷使することで基礎を築いたといえよう。