江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。
■「晒し者」になっていた宿場の遊女

 第11回『江戸の風俗に「パネル詐欺」はなかった!』で、吉原の張見世について書いた。

 妓楼(女郎屋)では客の男に、商品である遊女を展示し、選んでもらわねばならない。

 そのため、吉原以外の遊里でも、張見世と同じようなくふうをしていた。

 今回は吉原から離れ、ほかの遊里の状況を紹介しよう。

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写真を拡大 図1『春の文かしくの草紙』(山東京山著、嘉永6年)国会図書館蔵

 

 図1は、宿場の遊女(飯盛女)を描いている。

 吉原は幕府の許可を得た、公許の遊廓である。そのため、吉原の遊女は公娼だった。

 いっぽう、主要な街道の旅籠屋は、道中奉行から飯盛女と呼ぶ遊女を置くことを認められていた。そのため、飯盛女も公娼である。

 飯盛女(遊女)を置いた旅籠屋は、事実上の女郎屋だった。

 図1で、右側のふたりの遊女は、格子も囲いもない場所で化粧をしている。いわば晒し者になっているといってよい。

 だが、「晒し者」と見るのは現代の人権意識であり、当時はごく当たり前だった。

 むしろ、遊女は街道を行く旅人に見られたり、声をかけられたりするのを楽しんでいたろう。

 また、図1で、女が旅人の首に巻いた荷物を引っ張っている。これは、客引きの女中が、強引に旅人を泊まらせようとしているところである。

 品川、内藤新宿、板橋、千住の江戸四宿は厳密には江戸ではなく、宿場だった。そのため江戸四宿の旅籠屋は、遊女(飯盛女)を置いていた。

 なかでも、江戸市中から近い品川と内藤新宿は、江戸の男たちにとって手軽な遊里だった。

 図2は、品川の旅籠屋の光景。

 
宿場、岡場所の遊里を見れば、吉原の格式高さがわかる
写真を拡大 図2 『道笑双六』(芝甘交、天明6年)国会図書館蔵図2 『道笑双六』(芝甘交、天明6年)国会図書館蔵

 街道に面した、格子もない場所で、遊女ふたりが「晒し者」になっている。

 こうした遊女の前を、旅人はもちろんのこと、大名行列も通っていたわけである。

 

 かたや、江戸市中には、岡場所と呼ばれる遊里があった。

 岡場所は幕府の許可を得ていないため、非合法であるが、実際には堂々と営業していた。

時代により差はあるが、江戸市中におよそ四十~五十カ所の岡場所があった。

 岡場所の遊女は非合法だから、私娼である。 

宿場、岡場所の遊里を見れば、吉原の格式高さがわかる
写真を拡大 図3『盲文画話』(写本)国会図書館蔵図3『盲文画話』(写本)国会図書館蔵

 図3は、山下の女郎屋の遊女が男をさそっているところ。

 山下は上野の山のふもとにあった岡場所で、現在のJR上野駅の構内と駅前広場に相当する地域である。

 図に、「けころばし」と書かれているが、山下の遊女は俗に「けころばし」と呼ばれた。

 ただし、山下の岡場所は寛政の改革ですべて取り払われた。

 吉原、宿場、岡場所と見てくると、やはり吉原の張見世には格式があったのがわかる。

 張見世に居並んだ吉原の遊女は、

「あたしは、宿場や岡場所の遊女とは違う」

 と、誇りを持っていたであろう。

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