江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。
■たった一つの出入り口「大門」

 吉原の区画は長方形で、面積はおよそ二万八百坪あった。

 周囲には忍返が植えられた黒板塀がめぐらされ、その外は御歯黒どぶと呼ぶ堀が取り囲んでいた(すでにお歯黒どぶは埋め立てられてしまったため、いまでは吉原跡地である台東区千束の一帯を歩いていても、かつての境界にはまったく気づかない)。

 この堀で囲まれた広大な吉原には、出入り口は一カ所しかなかった。大門(おおもん)である。

 吉原は昼夜を問わず、男の出入りは自由だった。遊客はもとより、冷やかしの男や、各種商人などがひっきりなしに大門を出入りした。

 

 ところが、女は入るのは自由だが、出るのは自由ではなかった。

 大門の右手に四郎兵衛会所(吉原会所ともいう)と呼ばれる小屋があり、番人が常駐していた。女が吉原から出ようとしても、切手と呼ばれる通行証を示さないかぎり、番人は大門から外に出るのを許さなかった。

 これは、遊女の逃亡を防ぐための措置だった。
 そのため、吉原見物に来た女は、あらかじめ四郎兵衛会所で切手を入手しておかねばならなかった。吉原内に住む芸者や、料理屋の女中などは、代理役所の茶屋に申し出て、切手を発行してもらった。


 切手がないと、女は大門から外に出ることはできなかったのである。

 さて、遊女は自由意思で遊女になったわけではない。多くは、幼いころに親から売られた(身売り)のである。

 そのため、年季が終わるのを待ち切れず、吉原から逃亡したいと願う遊女は多かった。

 遊女の暮らしがもういやになった、客の男を好きになり、一緒になりたいが、年季明けまで待ちきれない、などなどの理由から、逃亡を図る遊女はあとを絶たなかった。

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写真を拡大 図1『帯屋於蝶三世談』(林家正蔵著、文政8年)/国立国会図書館蔵

 図1は、梯子などをかけて板塀を乗り越え、板を敷いて御歯黒どぶを渡り、あとは駕籠に乗ってすみやかに逃亡しようとしている。

 周到な計画と準備がうかがえる。

 しかし、逃亡はほとんど失敗したと見られている。

 遊女がひとりで脱出するのは無理なので、どうしても手助けをする男が必要になった。図1でも、男がふたりがかりで遊女の体を受け止めている。

 となると、遊女の馴染み客がかかわっているに違いない。

 日ごろから遊女と客の動きを監視している遣手は、
「○○さんが怪しいよ」
 と、ピンとくる。

 妓楼はすぐに追っ手を派遣する。馴染み客さえわかれば、だいたいふたりの行先は見当がつくからだ。

 その結果が、図2である。男も女も、あえなく追っ手に捕らえられてしまった。 

入るのは自由でも…吉原から逃げられない遊女たちの悲惨
写真を拡大 図2『風俗金魚伝』(曲亭馬琴著、文政12年)/国立国会図書館 

 逃亡しようとした遊女への折檻は苛烈だった。

 ただし、妓楼にとって遊女は大事な商品だけに、折檻はしても決して殺しはしないし、大きなけがもさせない。だが、とことん責めさいなんだ。

 折檻については、稿を改めて述べよう。

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