江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。
■「遊女城下町」吉原

 現代、企業城下町という言い方がある。

 自動車工場などの大企業があると、その下請け企業、さらに孫請け企業が成り立つ。

 また、それら多くの従業員を相手にして、各種の飲食業やサービス業が成り立つ。

 大企業を頂点にして、まるで城下町のように直接・間接に多種多様な商売が成り立っているわけである。

 江戸時代は大企業こそなかったが、まさに遊女城下町と呼べる状況があった。

 この状況は各地の遊里でいえたが、やはり吉原がもっとも顕著である。

 俗に「遊女三千」といい、時代によって差はあるものの、吉原にはおよそ三千人の遊女がいた。

 いっぽう、吉原の定住人口は約一万人だった。

 およそ七千人の人口は、三千人の遊女のおかげで生活していたのである。まさに、遊女城下町だった。

 この七千人には、妓楼に直接雇われた若い者や下女などがいる。そのほか、直接妓楼に雇用されているわけではないが、遊女のおかげで仕事が生じている多数の商人や職人、芸人などがいた。

いわば関連業者といおうか。

■遊女の手紙を客の男に届ける「文使い」

 そんな、吉原独特の仕事のひとつを紹介しよう。

メールも電話もない時代。遊女はどうやって“営業”したのか?の画像はこちら >>
写真を拡大 図1『春の文かしくの草紙』(山東京山著、嘉永6年)/国立国会図書館蔵

 

 図1の右下の男は、「けハひざかのふミづかひかん六」と紹介されている。
「けはい坂」は架空の名称で、吉原の近く。つまり、吉原に出入りする文使いの勘六というわけである。

 文使いは吉原独特の商売で、遊女の手紙を客の男に届けるのが仕事である。
 現在、水商売の女性が常連の客に来店をうながすときの手段は、もっぱらメールか電話であろう。

 ところが、メールも電話もない時代である。唯一の通信手段が手紙だった。図1でも、勘六は複数の遊女から手紙をあずかっているのがわかる。

 また、第14回『吉原遊女の「自由時間」を覗き見る』の図1にも、文使いの男が描かれていた。

 

 岡場所や宿場の遊女と違って、吉原の遊女はたいてい読み書きができた。

たんに読み書きどころか、美しい筆跡で、綿々と恋情をつづることができる女もいた。

 遊女から手紙をもらった男は、それこそ感激し、舞い上がる気持ちになった。何はさておき、その日は吉原に駆けつけたに違いない。

 手紙は吉原の遊女であればこその営業手段であり、こうした吉原の遊女相手だからこそ成り立つ商売が文使いといえようか。

 とはいえ、文使いは誰にでもできる仕事ではなかった。

 まず、読み書きができるのは当然として、江戸の地理をきちんと把握している必要があった。さもないと、複数の手紙を届ける場合、効率が悪くなり、商売として成り立たない。

■文使いは機転が利く

 さらに、機転が利かなければならなかった。

 たとえば、大きな商家の若旦那に手紙を届ける場合、店先に立って、

「こちらの若旦那に、吉原の○○さんからでございます」

 と声を張りあげては台無しである。

 激怒した主人に放り出されるであろう。

 すばやく状況を読み取り、奉公人のひとりに、
「恐れ入ります、ちょいと道をお尋ねします」
 と接近し、そっと耳元で、
「若旦那にあずかっている物がございます。ちょいと、お願いします」
 と、ささやく。

 奉公人が承知すればしめたもの。奉公人にからすれば、こうした秘密の取次ぎをすれば、必ず若旦那からそれなりの小遣いにありつけた。

 いっぽうの文使いも、上機嫌の若旦那から、
「ご苦労だった。取っておきな」
 と、祝儀をもらった。

 すでに遊女から手間賃はもらっているのだから、文使いにしてみれば二重に料金をもらうことになる。そう考えると、けっこううまみのある商売だった。

 さらに、
「ちょいと待っていてくれ。すぐに返事を書くから」
 と、若旦那から返信をあずかることもあった。

 こうした関連業者の活躍によって吉原は成り立っていた。
 なお、遊女と客の男の手紙の遣り取りは、船宿や引手茶屋も中継ぎの役を果たした。

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