■勝利の源、大量生産された各種駆逐艦(アメリカ海軍編)
約1000隻。ワークホースとして重用された「アメリカ駆逐艦」...の画像はこちら >>
沖縄攻略「アイスバーグ」作戦の最中の1945年4月6日、日本軍特攻機4機に立て続けに突入されたフレッチャー級駆逐艦ニューコムの船体中央部。上部構造物の破壊の程度はすさまじいが喫水線下の損傷がなかったため浮力を失わずに生還できた。

 アメリカは、第二次大戦の時点でこそ「デモクラシーの兵器工場」を自認する巨大な工業力を背景にして、世界一流の海軍を擁していた。しかし南北戦争以降、19世紀後半までのアメリカ海軍は、まだグリーンウォーター・ネイヴィー(沿岸海軍)の域を出ておらず、ヨーロッパ列強のようなブルーウォーター・ネイヴィー(外洋海軍)への成長をはたすべく、戦艦の建造に力を入れていた。

 ところが19世紀末の米西戦争でスペインがカリブ海に駆逐艦を持ち込んだことにより、アメリカも急遽、イギリスで実用化されていた駆逐艦(「駆逐艦の誕生」を参照:2018年08月01日配信)の建造に着手。同戦争直後の1902年、アメリカ海軍初の駆逐艦ベインブリッジ級が就役した。

 20世紀初頭の当時もアメリカは海軍の増強を続けていたが、その中心はやはり主力艦の戦艦で、駆逐艦は少なかった。しかし第一次大戦が勃発すると、強大な工業力を動員した同国は、4本煙突のフラッシュデッカー(「七つの海の覇者」の小さな働き者(イギリス海軍編)」を参照:2018年08月15日配信)を大量生産した。

 実は、これらフラッシュデッカーと称される級グループに属する駆逐艦は、当時としては比較的性能のバランスが取れた優秀な設計だった。そのせいで、第一次大戦後の戦間期の前半、アメリカ海軍では、同大戦での莫大な戦費支出の影響もあって、フラッシュデッカーを更新するための新型駆逐艦の配備が遅延してしまっていた。

 

 しかし試作的な級をいくつか造って基礎を固めることは行われており、第二次大戦が勃発すると、前大戦においてフラッシュデッカーを量産したのと同じ要領で、艦隊駆逐艦の大量産が始まった。まず、開戦直前から建造が進められていたベンソン、リヴァモアの2級が、当初の建造予定隻数よりも多く造られた。これにフレッチャー、アレンM.サムナー、ギアリング、カーペンターの戦時量産の4級が続いた。これら6級を合計すると、実に446隻に及ぶ艦隊駆逐艦が建造されており、艦隊駆逐艦より小型の護衛駆逐艦も、各級合わせて約560隻が竣工している。

 つまり戦時下にもかかわらず、アメリカでは駆逐艦と名が付く軍艦だけで、何と約1000隻が造られたのだ。

 これほどの隻数が建造されたため、アメリカ海軍での駆逐艦は、文字通り「艦隊のワークホース」として重宝された。そして本来の艦隊における駆逐艦の任務はもちろんのこと、艦隊駆逐艦や護衛駆逐艦を改造した掃海駆逐艦、高速兵員輸送艦、飛行艇母艦などといった、より専門性の高い任務に従事する特殊艦種も派生している。

 アメリカ海軍の駆逐艦に課せられた任務で特に重要かつ危険だったのは、レーダーピケットであろう。これは、高性能のレーダーを実用化していたアメリカならではの任務で、機動部隊の外縁にレーダーを搭載した駆逐艦をずらりと配置し、接近してくる敵機の早期の探知に加えて、味方の空母艦上機による迎撃の誘導なども行うものだ。

 特に日本軍の特攻に晒された沖縄戦でのレーダーピケット任務は過酷で、延べ101隻の艦隊駆逐艦がこの任務に就いたが、うち10隻が撃沈され32隻が損傷を被っており、被害の合計は実に任務参加延べ隻数の40パーセントにも及ぶ。

 なお、第二次大戦で量産されたアメリカ製駆逐艦は、同大戦終結直後に始まった東西冷戦に際して、戦禍まだ癒えぬアメリカの同盟諸国に気前よく提供され、国によっては1980年代ぐらいまで現役の座に在って「民主主義の防衛」に大きく貢献している。

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