2時間ほど経過し、宴たけなわとなった頃、猿楽の演目は3番目の「鵜飼」へと移っていた。義教が赤松氏の家臣・安積(あづみ)行(ゆき)秀(ひで)によって謀殺されたのは、この酒宴の最中であった。
すると、御座の間の附書院の明かり障子が突然開くと、甲冑を身に着けた武士が乱入し、あっという間に義教の首を刎ねたのである。一瞬のできごとであった。実は、武士が他家の邸宅に招かれる際は、腰刀のみを身に付けるというルールがあった。それゆえ、義教をはじめ随行した武将たちも、とっさに反撃ができなかったのである。
もっとも近くにいた実雅は、床の間の金覆輪の太刀で応戦しようとしたが、すぐに倒されて、そのまま昏倒してしまった。近習として隣室に控えていた山名熈貴・細川持春・大内持世は、ただちに反撃を試みたが、熈貴・持春は討ち死にし、持世は深手を負った。ちなみに熈貴は即死、なんと持春は片腕を切り落とされ死んだという。酒宴はたちまち修羅場となり、惨状と化したのである。
ところが、赤松氏の目的が義教の首を討ち取ることだけにあると知ると、武将たちはすこしばかり安堵した。
この義教暗殺の一件について。伏見宮貞(さだ)成(ふさ)親王の日記『看聞御記』には、義教が死んだにもかかわらず、周りの武将は逃げるばかりで、腹を切るほどの覚悟すらなかった、と非難の言葉を投げかけている。一方、義教の死を「自業自得」としたうえで、将軍のこのような犬死は古来からその例がないとしている。義教は恐れられていたので、思わず本音が出たのだろう。 満祐は将軍の首を播磨国に運び、葬儀を行ったという。現在、安国寺の裏手にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、義教の首塚と言われている。葬儀の後、満祐は義教の首を京都に返しており、相国寺長老瑞渓周鳳が播磨に下向して受け取っている。こうして義教は殺害されたのであるが、その後の幕府の対応が問題となった。
(つづく)
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