江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。
■廻しの悪弊

 昭和三十三年(1958)四月一日から売春防止法が完全施行され、わが国の遊廓制度は終わった。逆からいえば、昭和三十三年三月末日まで吉原遊廓は存続したことになる。

『全国遊廓案内』(日本遊覧社、昭和5年)の「遊廓語のしをり」に、「廻し制」について――

 廻し花制とも云ふ。一人の娼妓が同時に二人以上の客を取つて、順次に客から客へ廻つて歩く事。

 と定義している。また、同書は、「東京吉原遊廓」の特色として――

 登楼してからの制度は全部廻し制で、所謂東京方式と云ふ方法である。

 と述べている。

 昭和になっても、吉原では廻しが普通だったことになろう。

 さて、廻しは、いわゆるダブルブッキングである。妓楼は遊女に、同一時間帯にもかかわらず、どんどん客を付けた。

 同一時間帯に複数の客が付いている遊女は、金をもらっている以上、寝床をまわってサービス(性行為)をしなければならないはずである。ところが、往々にして、何人かの客を放っておいた。

 ■「もてた」「ふられた」

 これを、客の側からは、遊女が来た場合「もてた」といい、けっきょく遊女が来なかった場合「ふられた」といった。

 図1は、遊女を待ちわびている男。

 図2は、待ちくたびれた男が、

「さもさも、待ち遠なものじゃ。ちと畳算でもしてみようか」

 と、つぶやいている。

 畳算は、占いの一種。

 ふられた男を滑稽に描いた古典落語『五人まわし』などの影響もあって、廻しを面白おかしく解釈する向きもある。「もてない男は、どこに行ってももてないんだよ」と、笑ってしまうと言おうか。

ダブルブッキングされ…遊女にふられた「もてない」男たちの画像はこちら >>
写真を拡大 図1『穴可至子』(富久亭三笑著、享和2年)
ダブルブッキングされ…遊女にふられた「もてない」男たち
写真を拡大 図2『いろは短歌二ツ巴』(志満山人著、文政7年)

 江戸の人々も図1と図2に描かれた「もてない」男を見て、ニヤニヤしていたはずである。

 しかし、廻しを現代のサービス業に置き換えて考えてみよう。

 たとえば、あなたが10時から12時まで、スポーツ○○の個人レッスンを申し込んだとしよう。ところが、○○の教師は同じ時間帯に5人の客を受け入れていた。

 教師は最初、あなたのところに来て20分くらい教えたが、すぐにほかの客のもとに行ってしいまい、いっこうに戻ってこない。

そのまま12時になって終了だが、規定の金額は支払わなければならない。

 あなたの場合、20分は教えてもらったが、教師は美人の客のもとに1時間以上付いていて、ほかの客はせいぜい20分だった。気の毒なのは、最初に教師から挨拶を受けただけで、けっきょく何も教えてもらえなかった客もいたことだ。にもかかわらず、規定の金額を払わされる。

 あなたはもちろんのこと、とくに何も教えてもらえなかった客は激怒するであろう。激怒して当然である。

■「ふる」のは一概に非難できない

 廻しは理不尽な制度だった。とくに「ふる」のは、商道徳に反する、詐欺行為といってもよかろう。

 しかし、この廻しで、遊女が客を「ふる」のを、わがままや怠慢と非難するのは必ずしもあたらない。

 遊女にしてみれば、同一時間帯に複数の男にすべてサービスしていたら、体がもたなかった。客の男を「ふる」のは、遊女の自己防衛の側面もあったのだ。

 廻しは妓楼が売り上げを伸ばすため、遊女に過重労働を強いていたことにほかならない。

 元凶は江戸の妓楼の経営方針にあった。廻しは吉原、そして江戸の遊里の悪弊だった。
 紀州藩の医師が江戸の見聞を記した『江戸自慢』(幕末)に――

 娼婦ハ廻しと言事あり、一人の女郎ニて一夜ニ客三四人も引受、彼方より此方、此方より彼方と順々廻り、乗せて下して又乗せて、渡し舟の如く……

 と、江戸の廻しを、「渡し舟のように乗せて、おろして、また乗せて」の状態だとあきれている。

 というのも、京都や大坂など上方の遊里には廻しはなかったからである。

 いや、江戸どころか、昭和の吉原も前述したように「東京方式」と称して、廻しをおこなっていたのである。

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