大門は、堀と板塀で囲まれた吉原の、唯一の出入り口である。
遊郭を堀で囲み、大門を唯一の出入り口にするという構造は京都の島原遊廓を手本にしているのだが、島原については項を改めて述べよう。
写真を拡大 図1『吉原細見』(安政6年)図1に、大門と、日本堤から大門に至る五十間道が描かれている。
大門の右手にあるのが四郎兵衛会所。四郎兵衛会所に詰めている番人は、吉原の妓楼が共同で、いわば業界団体が雇った男たちである。
大門から女が出るのを監視していた。遊女の逃亡を阻止するための措置である。
いっぽう、大門の左手の建物は面番所で、町奉行所の同心と岡っ引が常駐していた。ただし、役所ということから大きく描かれているようだ。実際の大きさは、あとで示そう。
■「平穏で退屈」
図2に、大通りである仲の町と、その両側に軒を連ねる引手茶屋が描かれている。
仲の町から見て大門の右手に小屋があるが、これが面番所である。
建前としては、面番所の役割はお尋ね者などが出入りしていないか監視するというのだが、史料で確認できる限りにおいて、面番所が果たした役割は不明である。
面番所の役人が凶悪なお尋ね者を発見し、召し捕ったという記録もない。
おそらく、面番所に詰めた同心は、妓楼からの持ち回りの供応――酒と肴――を受け、平穏で退屈な日々を過ごしていたのであろう。
妓楼からすれば役人が「平穏で退屈」なのが理想だった。
■門は簡素、中は異空間
図3は、明治期の吉原の大門である。
江戸時代の大門にくらべると格段に開放的になっている。しかし、簡素なのは変わらない。
この簡素さは、意外性の効果を狙っているのではなかろうか。
つまり、何の変哲のもない門をくぐってなかにはいった突端、異空間が出現するという……
そういう観点からすると、現在の有名なテーマパークと同じであろう。いや、吉原はとっくにそれを実現していたのである。