時代小説や、テレビ・映画の時代劇に描かれる吉原では、客の男は妓楼にあがり、そこで遊女と対面し、場合によっては酒宴を楽しみ、そして床入りとなる。
ところが、江戸時代に限っても、吉原の歴史は二百五十年あるが、上記のように妓楼で客と遊女が床入りする仕組みは後半の約百年でしかない。前半のおよそ百五十年間は、揚屋で遊興するという仕組みだった。
次に、くわしく述べよう。
元和四年(1618)からおよそ四十年間の元吉原時代を通じて、さらに明暦三年(1657)から吉原(新吉原)となってからも宝暦十年(1760)まで、吉原遊廓には揚屋制度があった。
客と遊女は揚屋という、妓楼とは別な場所で寝たのである。
もちろん、吉原には妓楼はあったが、あくまで遊女の生活の場だった。客はまず揚屋にあがり、妓楼から遊女を呼び寄せるという仕組みだった。
客と遊女が対面するのも、酒宴をするのも、床入りするのも、すべて揚屋である。
現在の性風俗産業でいえば、デリヘル(デリバリーヘルス)システムに近いといえよう。妓楼は風俗嬢の独身寮兼事務所、揚屋はラブホテルに相当する。
当然ながら、妓楼より揚屋の方がはるかに広壮で豪華だった。
図1は標題に「あげや行」とあり、遊女が妓楼から揚屋に行くところである。
この絵の絵師は菱川師宣で、『吉原恋の道引』の刊行年の延宝六年(1678)は、吉原に揚屋制度があったころである。
師宣も当然吉原で遊んでいたろうから、図1はもちろん、次の図2と図3も、自分の体験を踏まえて、正確に描いていると見てよい。
■とある客の豪遊伝説
図2は揚屋の台所の光景である。料理人は鯛を調理しているが、客に出す料理であろう。客と遊女が酒宴をするため、揚屋の台所は忙しい。贅沢な食材がふんだんに用いられた。
いっぽう、この時代の妓楼を描いた絵はないが、遊女が生活しているだけだから当然、食事は質素で、台所も狭かったろう。
さて、紀文(紀伊国屋文左衛門)と奈良茂(奈良屋茂左衛門)の豪遊は伝説化している。
風俗を考証した『近世奇跡考』(山東京伝著、文化元年)に次のようなエピソードがある。
紀文は揚屋「泉屋」で、枡に小粒金(一分金)を入れて、豆まきをした。
また、『吉原雑話』(刊行年不明)には、次のようなエピソードがある。
奈良茂が友人と連れ立って吉原に行くことになったが、手土産として供に持たせたのは蕎麦二箱だけである。友人があまりに少ないと思い、途中の蕎麦屋であつらえようとしたが、どこも品切れだった。
じつは、奈良茂は前もって吉原はもとより、近隣の蕎麦屋ですべて蕎麦を買占めていたのだ。
■揚屋から妓楼へ
しかし、紀文と奈良茂が豪遊した時代の吉原は揚屋制度だった。図3は、揚屋の遊興の光景である。
ふたりの豪遊も、図3を見ると、急に色あせてくるのではなかろうか。
現代人がイメージする吉原は、江戸時代後期に描かれた浮世絵や錦絵で醸成されたものである。揚屋制度があった時代の吉原は、後世の吉原を見慣れた目から見るとなんとも素朴だった。
宝暦年間(1751~64)に揚屋制度は廃止され、太夫の称号もなくなった。
『新吉原細見記考』(雀庵著、天保14年)に、次のような記述がある。
宝暦十年(1760)に最後の揚屋「尾張屋」が廃業した。この尾張屋は万治元年(1658)の開業で、およそ百十年続いた、揚屋の名家だった。
かくして、宝暦年間以降、客は妓楼にあがり、遊女と床入りする制度になった。その結果、妓楼の造りも豪壮になっていった。