吉原は幕府の許可を得た、いわゆる公許の遊廓である。だが、江戸の吉原だけでなく、京都の島原、大坂の新町も公許の遊廓だった。
島原、新町、吉原を三大遊廓ということもある。
写真を拡大 図1『国字茶話文庫』(丹頂庵鶴丸著、天保9年)図1に「京みすじ町のよしの太夫」とあるが、三筋町は島原遊廓の異称。
つまり、長柄の傘をさしかけられているのは、島原の吉野太夫である。
見物の男たちが、
「さてさて、美しいもの」
「天人の落とし胤か、小野小町の生まれ変わりか」
と、讃嘆している。
京都の遊廓は天正十七年(1589)、豊臣秀吉の晩年、二条柳町にひらかれ、俗に新屋敷と呼ばれたという。諸説あるが、それまで各地に散在していた女郎屋を集め、遊廓として整備したのであろう。
その後、慶長七年(1602)、市街の拡張のため六条の地に移転した。
さらに、寛永十八年(1641)、三代将軍家光のとき、朱雀野に移された。正式な名称は西新屋敷柳町だったが、いつしか、島原と呼ばれるようになった。
遊廓はまわりを土塀と堀で囲まれていたため、寛永十五年(1638)に終結した島原の乱に従軍した男たちが、
「島原の城に似ている」
と評したのが由来だという。

図2には、島原の大門が描かれている。
この大門が唯一の出入り口だった。
吉原の大門も、この島原に習ったのである。
『けいせい色三味線』(江島其碩著、元禄14年)によると、島原の最高位の遊女である太夫は合わせて十三人。同書では、吉原の太夫はわずか五人である。
■新町のにぎわい
図3には、新町のにぎわいが描かれている。
天正十一年(1583)に大坂城の築城が始まると、多くの若い労働力が大坂に流入してきた。こうした男たちを目当てに女郎屋が林立した。
各地の女郎屋をできるだけ一カ所に集めるため、豊臣秀吉は天正十三年(1585)、大坂に遊廓を作るのを許可した。
その後、秀吉の死後も遊里は増え続けたが、元和三年(1617)、あたらしい町割りにともない、女郎屋はすべて新町に移された。二代将軍秀忠のときである。
こうして、新町は徳川幕府の公許の遊廓となった。
『けいせい色三味線』によると、新町の太夫は合わせて三十九人である。島原よりも多い。
元禄のころまで、経済も文化も上方の方が江戸よりも優位に立っていた。
遊里についても同様だった。
三大遊廓と称されるが、元禄のころまで、新町・島原の方が吉原よりはるかに繁栄していた。